順世派という考え方

真宗の往生論』を買い、読んでいます。
大谷派の学者の本ですね。本書は論文を加筆したもののようです。

検索して分かりましたが、女性のようなお名前ですが、男性の方なんですね。

まだ、読んでいる途中ですが、大谷派は、往生論についてもこのような論証が必要な状況なんだなぁと思いました。

以前、大谷派本願寺派の学者方で、往生が来世なのか現世なのかという点で議論があったと聞いています。私の先生は、それで大谷派の方は往生は現世のことと言って、本願寺学派の学者と議論が平行線だったという話をして下さいました。その裏で大谷派を応援していたのが、中村元さんだという話もしておられましたね。そんなことで、大谷派の学者の方の大勢が輪廻転生や往生などを説かなくなりました。

これは、仏教大学(浄土宗)で原始仏教関連の学者は同様のことを申しておりました。これと同じような考え方は、如来蔵思想研究の学者方にも顕著に起きておりまして、大谷派小川一乗さんなどは、中村元さんの考え方によく似た考え方をしております。

これらの学者に共通しているのは、次のような考え方です。
1、輪廻転生を認めない。これはお釈迦様より後世の弟子によってねつ造された考え方であると主張します。
2、神通力を認めない、このようなものは信じられないからという考え方なのでしょう
また、如来蔵研究の学者においては、これに
3、如来蔵思想は仏教ではない
という三番目の考え方がついてきます。
仏教はアートマンを否定したのに、如来蔵という形で肯定しているという考え方ですね。
如来蔵はアートマンとは異なるとお経には書いてあるにもかかわらず、そういう言葉には目を向けないのです。

また、これらの学者の中は、お釈迦様と同様の悟りをお弟子たちは開いていたにもかかわらず、特に阿難尊者系統のお弟子によって、権威付けのために、お釈迦様は仏として祭り上げられて、何度も生まれ変わって修行しないと仏になれないと説いたのだという考え方をする人が何人かいらっしゃいます。仏教はロマンだと言ってはばからない学者もおりました。これらの学者は信仰や解脱の渇望というのとは関係ないところで学問をしているとしか思えません。

仏教大学が廃れて仏教学科がなくなったのも、このような考え方の学者がいるために、仏教留学にきた学生などから支持を失ったことも原因の一つだと思います。

また、これらの学者の学風は、経典批判であり、いわば仏教を批判的に学問することです。
学生があまりに恐れ多くて、そんな仏教の勉強の仕方はどうかと教授に聞いたところ、そういう勉強の仕方で構わないと太鼓判を押したという話をどこかで読んだことがあります。つまりお釈迦様を仏と思わず、人間としか考えない学問姿勢です。これは中村元さんの龍樹という本の中でも見て取れる学風です。龍樹菩薩を菩薩と尊敬している風はありませんでした。また、この論理展開はどうかと批評しておられましたね。

先の『真宗の往生論』などでも、親鸞聖人を親鸞と呼び捨てにするかかれ方はこの学風からきたものでしょうか。なんといいますと、学者のことは、博士とか教授とか敬語を使うのに、仏陀や菩薩には敬語を使わないという状況ですね。その本では、師匠の方は「聖人」と仰っているのになぁと思ったものです。今の学術論文では、このように書かないと認められないというところはあるのかもしれませんね。
そういう理由の場合は、論文を一般に書き下ろす際には、序文などで断りを入れるなど一定の配慮があるべきように思いますが、どうでしょうかね。こんな些細な所を気にする人がいるなどとは思わないのでしょうか。

しかし、思うに、現在の学者の共通している信仰は
・科学信仰であり、
・お釈迦様はこの科学と矛盾することは説かれなかった
という妙な確信です。

そのため、現在の科学で死後が証明できないために、お釈迦様も死後の世界は説かれなかったと一方的に決めつけるわけですし、神通力も後世の人がでっち上げだというわけですね。代表がお釈迦様の十無記の解釈です。

お釈迦様時代に順世派という学派がありました。これは、比量を認めず、現量しか認めないという特徴がありまして、直感で分からない過去世や未来世を否定します。今の仏教学者は、この順世派の考え方によく似ています。

この学説は、実は当時一番幼稚だと評された考え方でして、今の仏教はこの考え方に成り下がっているのです。学者の方は、インテリでプライドみたいなものがあって、迷信ぽい話を信じるのが嫌いなんでしょうかね。

しかし、中村元さんが取り上げる原始仏教経典にも、お釈迦様の過去世の話などが縷々と説かれているのでありまして、どうして、これで輪廻転生を説かなかったというのだろうかと疑問を感じます。都合の悪いところは後世のでっち上げなどといえば、何でもいえてしまうので、何というかこのような姿勢の学問が大手をふるってまかり通っていいのでしょうか。

あとは、インドは歴史学が発展しなかったところでして、神聖なものを文字化しないという文化も多いに研究の妨げになっています。逆を言えば、何でもいえるという土壌がありますね。つまり、間違った学説も大手を振ってまかり通るのです。

平川さん(平川さんは個人的には尊敬しておりますが)以前、大乗仏教は仏塔信仰から生まれたということを提言して、一時定説となっておりましたが、平川さんがなくなられて、今はその考え方の見直されているところです。

仏教の学説は、その学者さんが生きている間は、それに遠慮してあまり反論されないという妙な風習がありますね。

さて、私は最近、チベット仏教で、死後の証明などの勉強をしておりました。しかし、これだけでは満足いく内容ではないと感じました。

簡単に説明すると、質量因ということを仏教では教えておりまして、心は心からしか生まれないというのです。つまり、身体から心は生まれないというのですね。

現代人は、脳が心の元という考え方をしていますから、まだ脳という考え方がなく身体と心の関係だけで証明をするチベット仏教は少々古く、今の現代人を納得させるのは難しいかなぁと感じました。昔の仏教学ではこれで十分理解可能だったと思いますが、今は、心というのは脳の中で作られた精神世界という考え方がありますし、また鬱病などの解決もこういう脳の中の伝達物質などで解明されていますから、脳が心に多いに影響を与えていることは否定できず、これだけではなかなか現代人には理解されないと思います。

個人的には、やはり業ということを考えてみるべきだと思っています。
つまり、心で考えたことは意業という業の一つなので(いわばエネルギーなわけです)それが消滅して何もなくなると考えるのは、不自然です。

身体は焼いて灰になります。物質的なエネルギーの総和は死後も灰や温度などのエネルギーの総和と同じになる訳ですが、心のエネルギーはどうなるのかという問題ですね。脳の中の精神世界という考え方では、業という考え方はないですし、エネルギーなどという考えかたはしないと思いますので、説明できないでしょう。仏教では、この業が異熟して他へと転生すると教えているのです。

このように考えると輪廻転生も肯首できるのではないかと思います。