龍樹、空の論理と菩薩の道 (1)

最近、瓜生津輶真さんが亡くなられたことを聞きました。

瓜生津輶真さんは、法城寺の住職さんだった方で、瑞剱先生とご縁のある方でした。瓜生津隆英和上の百回忌の際に、お話を聞くことができました。龍樹菩薩の文献などいわゆる中観学の研究で大変権威のある方でした。

瑞剱先生とも多少なりともご縁のあった方で、いくつか本も持っています。再度読み直してみたいと思っています。ここに少しづついただいて参りましょう。近年では『入中論』の翻訳を行っておられました。この本も求めて持っています。

まず、「龍樹、空の論理と菩薩の道」という本がございます。これは、まだチベット仏教を勉強する前に読んだものであり、仏教をよく理解できていない頃に読んだものです。

その頃の感想は、親鸞聖人を呼び捨てにしたり、龍樹菩薩も呼び捨てにしたりという状況で、それだけであまり賛同できない状況でした。

瓜生津輶真さんは、この本を学術書として出されたのでしょうか。そういう風に読めば理解できますが・・・、しかし、真宗の指導的立場である方なので、もう少し配慮があっても良かったのではと思います。

愛欲の広海

さて、P8に書いてありますが、親鸞聖人が愛欲をはじめ煩悩の断ちがたいことを知り、妄念妄執の虜である自己に深く悩まれたという記述があります。龍樹菩薩の青年時代の王宮に忍び込んだという逸話との対比として出て参ります。

確かに、親鸞聖人は、

「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」

教行信証に書いておられますが、これを我々俗世間の色恋と同じように理解するのは時々仏陀を人間として理解しているのと同様で間違いというものでしょう。たぶん、輶真さんも同じ理解でしょうが、一応誤解があるといけないので書いておきます。

私の先生は、「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず」を世間的な色恋のように理解してはいかんぞ、そんな浅い懺悔とは違うと仰しゃられたことがあります。

「我らは生死の凡夫でない(かわ)」と仰しゃられた、その自覚がある中での懺悔のお言葉であることを忘れてはいけません。当然、色恋におぼれて生死の一大事に驚きもたてない人の言葉と同様に理解してはならないのです。

これは世間で多く誤解されていますね。親鸞聖人の懺悔のお言葉を人間の三大煩悩である、色欲の赤裸々な告白、というように取って煩悩におぼれた人と同様に思ってしまうような解説をしている人が散見されます。それは反省すべきでしょうね。

一つ証左をあげるとするならば、聖人は何度も霊夢を見ておられますね。霊夢を見るというのがどういう心理状況か考えてみるべきです。煩悩の多い人間は霊夢を容易に見ることができるかどうか。また霊夢の中で、菩薩を拝見した時に、その拝見した菩薩にどれほど心を洗われるか、そういうことを一度考えてみるべきなのです。

空の哲学の章では、藤田宏達博士の名が出ており、下手をすると参照され薫陶を受ける人もいるかもしれないので言及しておきますが、個人的にはこの方の本は全く読むに耐えない参考にもならないものだと思っています。

輶真さんは、空の論理という言葉を使っていますが、これは無自性ということを主張することが主眼ということでしょうか。当時の仏教は、この自性を説いた仏教学が多い状態でした。いわゆる伝統的仏教の倶舎論などのその特徴を見ることができます。すべての法を実体的にとらえて理解して行く手法です。それについて問題提起したのです。つまり法無我にくらいこれらの学派について法無我を理解する一方法を提示したともいえるでしょう。法無我は実は人無我にも通じる問題です。基体が法に向かうか自我に向かうかの違いしかありません。つまり、倶舎論を信奉し、修行しても真の阿羅漢になれないという問題を含んでいるのです。

基本的に龍樹菩薩が使っておられた論法というのは、帰謬論法というものです。帰謬論法は、宗を建てないという特徴があり、自己主張がありません。また、他の学説の誤りを帰謬論法で論破していくというのが一番の特徴です。他の学説の主張がもし真とするならば、こういう自己撞着が発生する、ということは、主張がそもそも誤っているのだという主張ですね。まあ、現在は背理法と言ったりします。

最近、数独というゲームを解くことがありますが、これは背理法を使って解いていきます。あるますにある数字を当てはめて解くと結果的に誤りとなるので、さかのぼって、そのますにあてた数字に誤りであるという論理を使って解いて行く訳です。

ここでいう否定論証と対照的なのは、演繹法です。AならばBという論法ですね。この論法を取られなかったのが龍樹菩薩という方だということです。*1この龍樹菩薩の流れをくみ、帰謬法を主に論理構築している派を帰謬論証派といい、また、演繹的な論理学を主として論理構築している派を自立論証派(こちらは無著菩薩、世親菩薩の流れをくみます)といいます。

演繹法は後の論理学が発達した後、因明として陳那(ディグナーガ)法称(ダルマキルティー)によって大成されていく訳です。
これは演繹法なるが故に、ある程度「相」を認めてしまうという宿命を持ちます。唯識の欠点である微細な空を否定仕切れないという問題をかかえてしまっています。これは難しい問題なので、チベット仏教などを勉強して理解してほしいと思います。

倶舎論などを勉強する際は、アフォーダンスの認知学を勉強するとその問題点を理解する助けになると思います。アフォーダンスとは、アフォードという動詞から作られた名詞で、あらゆるものは相を提供するという意味ですね。たとえば、私たちは腰下くらいの大きさの石を見ると知らず知らずそれを椅子のように認識しています。我々がものを認識する際にどうしても、そういう相を伴って認識してしまうのです。これは複眼を持つ昆虫ですらそうであるといわれています。それが迷乱であると教えているのが、帰謬論証派だといえましょう。

龍樹菩薩は、生来の天才だったが故に、当時の演繹的な論理学の問題点を理解しており、これらの論理学による理論構築をされず、帰謬法での論理構築にこだわったのです。それはすべての自性を否定するのに必要な手法だったといえるでしょう。そのため、彼の書いた論書、特に中論は難解な書とならざるを得ませんでした。

輶真さんの本には、歴代の学者方の名前が連ねてありますが、否定論証を勉強する場合は、チベット仏教による空性理解がベストだと思われます。輶真さんはこれをチベット仏教に頼らずに勉強されたので大層苦労されたように思われますね。もし、龍樹菩薩の空の論理を勉強したいと思うならば、迷わず、チベット仏教の帰謬論証派の哲学を勉強すべきです。

ただ、問題は、チベット仏教は龍樹菩薩だけでなく無著菩薩の教えの流れも引くが故に浄土教(他力仏教)を認めていません。まあ、このあたりがこの学説を勉強する際に留意すべきところだと思います。

大乗仏教には小乗的な煩瑣的な行がなかったとかありますが、それは誤りだと思います。大乗仏教はお釈迦様が定めた戒律や阿含のお経、それに倶舎論などで定めた四聖諦や十二縁起などの教えをベースに成り立っています。その上で、仏になるのには、智慧としては、煩悩障だけでなく所知障の断滅せねばならず、そのために智慧の資糧を積まねばならないと教えます。いわゆる八、九、十地の修行です。また、密教が発達した理由として、顕教には、いわゆる最後の百大劫での修行が明らかに説いていないという問題があります。密教の中でその修行方法が説かれていると教えているわけです。ですから、その点煩瑣と言われる修行があるのでありまして、決して煩瑣な修行がないというのは認識違いだと思います。

また、色身を成就するためには、布施を中心とする方便の修行である六度万行の福徳の資糧が必要になります。そして、福徳の資糧を積むことで智慧が増すという関係にあります。福徳すなわち善が悟りの資糧となりうるというのは、この関係があってのことで、いわゆる不二というべきか、即というべきか、福徳即智慧という関係があるということを知らねばなりません。(あくまで、智慧の資糧と福徳の資糧は結果が異なるのです。ただし、福徳は智慧を増上するという関係にあるということです。)

龍樹菩薩の生い立ちで面白いのは、大乗の教えを求めて北インドに旅しているところですね。大乗仏教はどちらかというと北インドに発達しました。これがどういう理由によるのか分かりません。また、大乗の初期仏教の中に、般若経以外に、浄土経典があったことは特筆すべきことです。龍樹菩薩は浄土教によって最終的に阿弥陀仏の極楽に往生したと言われています。これはチベット仏教でも認めていますね。

*1:当時、そのような論理学を使っていたのがニヤーヤ学派です。