忽然念起

以前いたところで、この言葉は無明の異称だと教えていました。

これは、大乗起信論の中で説かれる言葉でして、我々は本来仏であるのに、客塵煩悩に覆われてしまって迷っているのだと教えますが、その客塵煩悩がいつ起こったかというのを忽然として念が起こったというのでして、無明の異称というのは少し違いますね。まあ、この忽然念起が客塵煩悩と関係が深いというのは正しいと思います。

この忽然という言葉はこのように客塵煩悩と関係が深い言葉です。如来蔵経典などの中ではよく出てきます。
如来蔵経典や論の中で忽然という言葉があったら、客塵煩悩のことを言っているのだと思って読んでいいほどです。

大乗起信論でこのような言葉が説かれているのですが、しかし、大乗起信論は変わった論書だと思います。
まず大乗の理解の仕方が他にない理解です。通常大乗は、大きな乗り物、小乗と対比して大なる教えとして理解されますが、大乗起信論の中での大乗の定義は「衆生心」です。この衆生心が実は如来蔵であるという展開になっていくのが大乗起信論ですね。

このような教え方をする仏教の教えは他にはあまり見当たらないのでありまして、私はこの論書を読んだ時、大乗の説明を受けた段階でよく分からないなぁということになってしまったのを覚えております。

この論書を書いたのは真諦三蔵です。大乗起信論という論書は、馬鳴菩薩の書かれたものと言われています。

訳出した三蔵についても疑義を申す人もいらっしゃいますが、この論書を書かれたのが、馬鳴菩薩だと思う人は現在ないと思います。
馬鳴菩薩のおられた時には、唯識思想も如来蔵思想もあまり発展していなかったためです。こんなことを書くと私の先生に怒られるかもしれませんが・・・

大乗起信論のもう一つの特徴は、如来蔵思想だけでなく、唯識思想も説かれていることです。相容れないものを一緒に説いている印象を受けますね。

何故なら、如来蔵思想は一乗思想です。つまり誰でも仏になれるという思想なのです。一方唯識思想は五乗各別と申しまして一乗仏教ではありません。三乗それぞれの教えをといて、それぞれの教えで悟りを得るというもので、未来永劫仏になれない人も説いています。

如来蔵思想の論書としてあげられる「宝性論」は中観の帰謬論証派の論書であろうと言われています。その学派でしか説かない内容が書かれているからです。

この中観帰謬論証派と唯識瑜伽行派の教えがミックスされているのが大乗起信論ということになりますね。大蔵経の中では、瑜伽行派に分類されているのは、分類された方がどちらかというと唯識思想の方で分類されたのだと思われます。

私はチベット仏教の教室で「宝性論」を勉強したことがあります。大変勉強になりました。

次は前にも述べましたが、

その時、宝性論で如来蔵のある根拠として出されたものが、実は攝大乗論では、阿頼耶識の根拠として提示されていることを知りました。
日本の学者はほとんどこれに注目しておりませんが、たぶん漢文での訳が異なるために気がつかないのだと思います。

宝性論では次のように出てきて、

以是義故 経中偈言、
無始世来性 作諸法依止 依性有諸道 及証涅槃果

攝大乗論には
謂薄伽梵於阿毘達磨大乗経伽他中説。
     無始時来界   一切法等依
     由此有諸趣   及涅槃証得
はこのように出てまいります。

性と界は同じサンスクリット語の訳です。

よって、如来蔵と阿頼耶識の根拠は同じになるのですね。


そこで、大乗起信論を振り返ると、我々の心を真と妄で分析して、真の場合を如来蔵とみ、妄の場合を阿梨耶識とみています。
この根拠を見るとこの論理が肯首できると思います。

さて、真諦三蔵は他の三蔵に比べて不遇でして、大変中国が混乱していた時期に中国にやってきた人でした。そのため、十分な訳経環境のない中で訳出された方です。その特徴としては、訳の中に彼の解説をたぶんに盛り込んでいるところです。彼自身が解説をしながら訳出している訳ですね。その解説が訳と渾然としているため、当初は別の論書じゃないかと思われたものもあるようです。

私は、真諦三蔵がご自身の仏教理解を解説書としてまとめたものを訳出された可能性は高いのではないかと思っています。

まあ、そのような理解をして大乗起信論を読まれると大変勉強になろうかと思います。

また、「宝性論」を読むとまるで浄土真宗の教義ではないかと思うことがあります。それほど浄土真宗と親和性が高いのです。

さて、話を忽然に戻しますが、実は忽然という言葉を善導大師は二河白道で何度か使っておられますね。
忽然として中路に二つの河あり
忽然としてこの大河を見て
などです。

ここでの忽然は客塵煩悩を表すものではないと思いますが、私の先生はよくこの忽然について話をされました。
私たちは、忽然と二河があることを知らされて苦しむわけですね。

仏教聴聞をしていくと自分の心を反省させられます。