倶舎論(1)

今、倶舎論の勉強を初めています。以前世間品から勉強して、8品まで勉強しましたが、最初の1章、2章が勉強できていなかったので再度勉強しなおしております。
倶舎論には大乗仏教に通じる内容も出てくるので、とても勉強していて面白いです。ここでは、講義で出てきたことを少しづつ書き留めて行きたいと思います。

まず、倶舎とは、Koxaの訳であり、蔵を指しますね。

また、五事といって、色・心・心所・心不相応行・無為を八品の論述形式で記述したのが倶舎論になります。
ちなみに、チベット語訳はここにあるように八品止まりで、九品の破我品がありません。今回はチベット訳の倶舎論を勉強するため八品までになります。
また、一週少しづつ進むので、ここへの書き込みも時間的にはゆっくりになろうかと思います。

冒頭に不染汚の無知について出てきており、阿羅漢は、染汚の無知は無くしているが不染汚の無知を無くしていないので仏様のような一切智ではないことが説かれています。
小乗仏教では、所知障という言葉ありませんが、不染汚の無知ということは説くのですね。
不染汚の無知として4つをあげており、①仏陀の深甚であり微細な法に関しての無知、②きわめて遠くの場所に関しての無知、③きわめて遠い時間に関しての無知、④形象の無辺なる差別に関しての無知をそれぞれ例をあげて説明しています。

仏陀という悟りは当時は誰でも悟れたが阿難一派が権威付けのためにお釈迦様のみを仏陀にしたんだと言っていた教授がいましたが、あまりの妄想にその教授の話を聞く気が起きなくなりましたが、
倶舎論では、お釈迦様と阿羅漢の悟りの違いをハッキリと教えていますし、これから出て参りますが、菩薩についても少なからず出て参ります。
それに他の学流たる大乗仏教でも仏様のお釈迦様を尊敬しないものはありません。インドは歴史学が発達しなかったので、こういう変な説もいいたい放題というところがあって、仏教を学ぶものは
そういうものを選ぶ能力が必要になりますね。