努力精進

この間の仏教の講義(入菩薩行論)の中で、「精進とは善に対して喜んで励むこと、そして六波羅蜜の基盤になるものだ」と教えられました。

そういえば、小学校の時に図画の時間に書いた絵に好きな言葉を書くように言われて絵の上に「努力」と書いて、それを持ち帰って
家に飾ったのを思い出しました。自分はそういう純粋な心を忘れているのかもしれません。

息子とおつとめをした後に、チベット仏教で教えられた、白と黒の石を置いて、善をすれば白、悪をすれば黒をおいて一日の
反省をするというのを息子としました。

息子に今日は白黒のどっちだと聞いたら、「僕白ばっかり!」というものだから、「今日ママに怒られなかったか?」って聞いたら、
「あぁ!」と言っていました。それはわがまま言って泣いた時に怒られたのであって、その泣いたのも、ただ、ぐずって泣いただけ
で、特に大きな悪の動機とは言えません。

子供は心が真っ白で、煩悩に邪魔されることがあっても、純粋に生きているんだなぁと思いました。

大人になるに従って、悪い動機というのが出てくるのでしょう。

以前、大学のサークルで先輩によく怒られましたが、何で怒られたかよく分からなくて・・・・
それが社会人になって、ふとした機会に怒られたのを思い出し、そしてどうして怒られたのかを理解できたことがありました。
「ああ、あの時、あんな事で怒っていたんだ」と思って、その動機があまり汚い猜疑心のような動機だったもので、悲しくなったこと
がありました。

それとそれ以上に悲しく思ったのは、

それが分かったということは、自分も同等なくらい汚い猜疑心が出来たのかなぁと感じたことでした。


以前にも思ったことがありますが、我々大人は煩悩や諸々の猜疑心などで純粋さを忘れています。
子供を育てるというのは、忘れていた純粋な心を取り戻す良い機会なのかなぁと改めて思います。

表題の努力精進を、子供の頃のような純粋な心でまたやり直すつもりでやってみたいと思っています。

息子が帰ってきました

息子が中国から帰ってきました。

いつも思うことは、2つで
・思っていたより小さいこと
ヨーダのようになんかぎこちないこと

息子を日本で迎えた第一印象は「小さいなぁ」です。中国から帰ってくる時思う印象はいつもこれですね。
想像の中で大きくなってしまうのか、何故か小さく感じます。

また、ヨーダのような修行僧のようなイメージを感じます。
中国という異文化の中で過ごしたためでしょうか。

しかし、中国語ばかり話してちょっと困るのと大変甘えん坊になって、赤ちゃん返りのような現象になっています。
中国語はまるでカンフー映画で出てくる男優のようなしゃべり方です。

日本の幼稚園に行ったら、また日本人らしくなるとは思いますが、まあ、何より無事に帰ってきたことを
喜びたいと思います。暫く朝早く起こされることを想定して10時くらいには寝ないと身体がもたない可能性があるの
で生活リズムを直していく必要がありますね。

それと、今日ウルトラマンごっこをしましたが、以前に比べて力がつよくなって勝てそうになくなったことが困ります。
力を入れたらけがしかねなくて、いい頃合いで遊べなくなりそうです。

衆生苦悩我苦悩 衆生安楽我安楽

息子はここ3ヶ月中国の幼稚園に入っていて、そろそろかえってきます。
先日、息子たちは休みをとって普陀山というところに行ったいう知らせがありました。観音菩薩で有名なところのようです。


また、ここは海の近くにあるため、息子が海辺で戯れる動画を送ってきました。息子が喜んだ声を出している所を見ると不思議にこちらも笑っています。
何度見ても笑ってしまいます。これは、たぶん、肉親にしか分からない感情かもしれません。

その時、東方偈に、

応時無量尊 時に応じて無量尊、
動容発欣笑 容(みかお)を動かし欣笑を発したまひ、
口出無数光 口より無数の光を出して、
遍照十方国 あまねく十方国を照らしたまふ。
廻光囲繞身 光を回らして身を囲繞すること、
三匝従頂入 三匝して頂より入る。
一切天人衆 一切の天・人衆、
踊躍皆歓喜 踊躍してみな歓喜す。
大士観世音 大士観世音、
整服稽首問 服を整へ稽首して問うて、
白仏何縁笑 仏にまうさく、「なんの縁ありてか笑みたまふや。
唯然願説意 やや、しかなり。願はくは意を説きたまへ」と。
梵声猶雷震 〔仏の〕梵声はなほ雷の震ふがごとく、
八音暢妙響 八音は妙なる響きを暢(の)ぶ、
当授菩薩記 「まさに菩薩に記を授くべし。
今説仁諦聴 いま説かん。なんぢあきらかに聴け。
十方来正士 十方より来れる正士、
吾悉知彼願 われことごとくかの願を知れり。
志求厳浄土 厳浄の土を志求し、
受決当作仏 受決してまさに仏となるべし。

というのがあるのを思い出しました。

阿弥陀仏は我々の決定をにっこり笑って見ておられる。それは親が子供の喜びに共感するがごとくなのだと思います。

私の先生は、親にならないと阿弥陀さんの心は本当のところよく分からないと仰ったことがありました。その言葉も思い出しました。

我々は我執が強いため親族にしかこういう心が起きませんが、阿弥陀様は大我の中で生きておられるので、一切衆生を自分の息子とみておられるのです。

怒りを減らすには(ビジネスにて)

入菩提行論の勉強をしています。

これは全く聖道門の話で、浄土門の人にはほど遠い高尚な話しばかりです。
私は怒りを忍耐する方法などの実践論はないものかと悩みながら読んでいますが、世間八法(名誉や財産)をまず捨てよというところから始まります。名誉や財産を追いかけていては、聖道門の修行にならないのです。

ただし、出家でもしない限りは、名誉はともかく生活が出来る程度の富みを持つ必要があります。そうしますと仕事は一生懸命しなければなりません。

私の場合は、だいたい仕事がうまく行かない場合に、怒りがおこります。

怒りは瞬発的なものであって、なかなか「正知」でもってなくすということができません。それほど凡夫ということでしょうか。
幸いビジネスパートナーは面前にいなくて、ネットによるChatのやりとりですので怒っていることなど分からないと思いますが、
私が天を仰いでいるのはだいたい怒っている時ですw。

また、私の場合、今のビジネスパートナーには怒らないということを基本にしています。
理由はビジネスパートナーが外国人だからです。

怒って何か改善できるなら、それを利用することもあるでしょうが、だいたいのトラブルの原因はコミュケーション不足の問題です。
日本人ならある程度の説明で分かるものが、外国人では分かってもらえないというのがトラブルの大本です。

ですから、怒ったところで反発されるだけで何も改善しないのです。

日本人同士のビジネスの場合は、そういう前提のコミュニケーションの問題はほとんどなく、先方のミスで発生する問題が多いです。
だから「どうしてそうなったのか」と聞くと、嘘で繕うことが多く話しをすると直ぐに嘘が分かって「何を言っているの?」と
怒らざるを得ず、逆に日本人の場合は怒らないと仕事が先に進みません。納期通りにやろうと思ったら怒る必要があるのです。

何でこうなんだろうと思います。まあ、そいうことですから、日本では仕事を進める方便に怒っているという感じです。
最近、こういう怒りを伴う仕事が本当に嫌になってきました。

最近は日本の企業とのおつきあいはほとんどない仕事をしていますが、最近、勧誘があって仕事を始めたものがありましたが、その勧誘をしてきた営業が毎日のように電話をかけてきて、こちらの仕事が邪魔されるので、Chatを使ったコミュニケーションに誘導したのですが、返事が遅いと怒り出します。日本人のコミュニケーションをベースにした仕事手法で本当に嫌になり仕事をお断りしました。

思うに、日本人のパートナーは極力減らし、ほとんどを外国人にしようかと思っています。
そうすれば、怒りを方便にするような仕事は減るだろうと思っています。

毛細血管の衰え

最近、TVで毛細血管の加齢による衰えがあり、20代と70代で比べると70代では40%も減ってしまうという内容でした。

それによると肌に大きく影響し、シミが出来たり、たるみが起きるなどは、この毛細血管が減ってしまう為のようです。

今年体調不良が改善しなかったので、台湾の有名な漢方医の所に行ってきたのですが、その時、最近よく眠れないという話を
したところ、「それは酸素が足らないからだ」と教えられました。

「酸素が足らない」という話がピンと来なくて、どうやって改善したら良いかいまひとつ分からなかったのですが、
このTVを見て自分の問題が分かったように思いました。

特に毛細血管の働きが悪い人は、皮膚の表面温度があまり上がらないという実験のをやっていて、私の場合40代くらいからか、
夏、電車の冷房が絶えられなくなって、弱冷房車を使うようになっていました。これは毛細血管が衰えた証拠だと思います。

よく眠れないなどの問題も結局、毛細血管の衰えに関係がありそうです。
幸い、シナモンやニッキをとると治るということだったので、自分用にシナモンを買って、珈琲やヨーグルトなどに入れて
食べるようにしています。あれから4日ほど経ちますが、夜寝付きがかなり改善しました。

もし興味のある方はシナモンの副作用と効果と効能を参照下さい。

血糖値の改善やコレステロールの改善にもよいようです。

思い出すのは、私の先生も加齢による睡眠不足に悩んでいたことがありました。寝付きがよくなるようにお酒などを差し入
れたことがありました。その時、この話を知っていたら、ずいぶん先生も改善されたのになぁと悔やまれます。

忽然念起

以前いたところで、この言葉は無明の異称だと教えていました。

これは、大乗起信論の中で説かれる言葉でして、我々は本来仏であるのに、客塵煩悩に覆われてしまって迷っているのだと教えますが、その客塵煩悩がいつ起こったかというのを忽然として念が起こったというのでして、無明の異称というのは少し違いますね。まあ、この忽然念起が客塵煩悩と関係が深いというのは正しいと思います。

この忽然という言葉はこのように客塵煩悩と関係が深い言葉です。如来蔵経典などの中ではよく出てきます。
如来蔵経典や論の中で忽然という言葉があったら、客塵煩悩のことを言っているのだと思って読んでいいほどです。

大乗起信論でこのような言葉が説かれているのですが、しかし、大乗起信論は変わった論書だと思います。
まず大乗の理解の仕方が他にない理解です。通常大乗は、大きな乗り物、小乗と対比して大なる教えとして理解されますが、大乗起信論の中での大乗の定義は「衆生心」です。この衆生心が実は如来蔵であるという展開になっていくのが大乗起信論ですね。

このような教え方をする仏教の教えは他にはあまり見当たらないのでありまして、私はこの論書を読んだ時、大乗の説明を受けた段階でよく分からないなぁということになってしまったのを覚えております。

この論書を書いたのは真諦三蔵です。大乗起信論という論書は、馬鳴菩薩の書かれたものと言われています。

訳出した三蔵についても疑義を申す人もいらっしゃいますが、この論書を書かれたのが、馬鳴菩薩だと思う人は現在ないと思います。
馬鳴菩薩のおられた時には、唯識思想も如来蔵思想もあまり発展していなかったためです。こんなことを書くと私の先生に怒られるかもしれませんが・・・

大乗起信論のもう一つの特徴は、如来蔵思想だけでなく、唯識思想も説かれていることです。相容れないものを一緒に説いている印象を受けますね。

何故なら、如来蔵思想は一乗思想です。つまり誰でも仏になれるという思想なのです。一方唯識思想は五乗各別と申しまして一乗仏教ではありません。三乗それぞれの教えをといて、それぞれの教えで悟りを得るというもので、未来永劫仏になれない人も説いています。

如来蔵思想の論書としてあげられる「宝性論」は中観の帰謬論証派の論書であろうと言われています。その学派でしか説かない内容が書かれているからです。

この中観帰謬論証派と唯識瑜伽行派の教えがミックスされているのが大乗起信論ということになりますね。大蔵経の中では、瑜伽行派に分類されているのは、分類された方がどちらかというと唯識思想の方で分類されたのだと思われます。

私はチベット仏教の教室で「宝性論」を勉強したことがあります。大変勉強になりました。

次は前にも述べましたが、

その時、宝性論で如来蔵のある根拠として出されたものが、実は攝大乗論では、阿頼耶識の根拠として提示されていることを知りました。
日本の学者はほとんどこれに注目しておりませんが、たぶん漢文での訳が異なるために気がつかないのだと思います。

宝性論では次のように出てきて、

以是義故 経中偈言、
無始世来性 作諸法依止 依性有諸道 及証涅槃果

攝大乗論には
謂薄伽梵於阿毘達磨大乗経伽他中説。
     無始時来界   一切法等依
     由此有諸趣   及涅槃証得
はこのように出てまいります。

性と界は同じサンスクリット語の訳です。

よって、如来蔵と阿頼耶識の根拠は同じになるのですね。


そこで、大乗起信論を振り返ると、我々の心を真と妄で分析して、真の場合を如来蔵とみ、妄の場合を阿梨耶識とみています。
この根拠を見るとこの論理が肯首できると思います。

さて、真諦三蔵は他の三蔵に比べて不遇でして、大変中国が混乱していた時期に中国にやってきた人でした。そのため、十分な訳経環境のない中で訳出された方です。その特徴としては、訳の中に彼の解説をたぶんに盛り込んでいるところです。彼自身が解説をしながら訳出している訳ですね。その解説が訳と渾然としているため、当初は別の論書じゃないかと思われたものもあるようです。

私は、真諦三蔵がご自身の仏教理解を解説書としてまとめたものを訳出された可能性は高いのではないかと思っています。

まあ、そのような理解をして大乗起信論を読まれると大変勉強になろうかと思います。

また、「宝性論」を読むとまるで浄土真宗の教義ではないかと思うことがあります。それほど浄土真宗と親和性が高いのです。

さて、話を忽然に戻しますが、実は忽然という言葉を善導大師は二河白道で何度か使っておられますね。
忽然として中路に二つの河あり
忽然としてこの大河を見て
などです。

ここでの忽然は客塵煩悩を表すものではないと思いますが、私の先生はよくこの忽然について話をされました。
私たちは、忽然と二河があることを知らされて苦しむわけですね。

仏教聴聞をしていくと自分の心を反省させられます。

懺悔について

最近、ティク・ナット・ハンのマインドフルネスというメソッドがビジネス業界にも浸透しはじめています。マインドフルネスで検索するとたくさん出てきますね。なんというか、流行に乗ってビジネスをしようという心がたくましいですね。そのせいか、心の時代でも再放送していますね。。。


ティク・ナット・ハンのマインドフルネスは止観の初歩というところで、数息観に近いものですね。適度の集中力で、心を切り換えるというものです。


浄土真宗はこういうメソッドを説明しておりません。自力的解決方法は教えられていません。どちらかというと、皆、他力の信を得て解決するという考え方です。

私は、最近、大乗起信論を勉強して思うのは、この中で、礼拝と同時に懺悔ということを初学として大切にしております。せめて、私たちは礼拝と同時に懺悔ということも大切にすべきではないでしょうか。。。。

チベット仏教では、毎日、白と黒の石で自分の生活を反省するということを教えております。
一日の反省として、良いことをしたことを思い出したら、白い石を、悪いことをしたと思ったら、黒い石をおいて行くのです。それを実践した人が、最初は、真っ黒だったものが、最後には真っ白になったという話があります。

私たちも、せめて、こういう心がけで五正行を実践し、その中に懺悔ということを礼拝と同時におこなうのがよいのなぁと思う今日このごろです。


先日、サイエンスゼロでも放送していました。何というか、正知を育てるところがあるんだなぁと思いました。
自分には正知が足らないので、こういう訓練はよいかもしれないと思い始めました。まあ、解脱のためとかいうと雑行になりますが、そういうことを訓練のように思えばいいかもしれません。