『大無量寿経』は編輯経典ではないか

 前紹介した『仏典はどのように漢訳されたのか』という本の中に、偽経と真経の中間に編輯経典というのをあげています。そのジャンルの中に「異なる訳者の部分訳をつないで一つにしたもの」というのがあります。今の『大無量寿経』について考えるにこれに当たる可能性が高いと考えたところでした。

 これは、今後の研究を待たないといけないと思いますが、理由はいくつかあります。

一つ、訳者とされている康僧鎧は、初期の大乗経典の訳出時期(252年)になり、二十四願系の無量寿経を訳出をしているはずで四十八願系の無量寿経が訳出されるのには時代が早すぎること。

二つ、文体がかなり異なること。

 現在の学説では、このような理由で、仏陀跋陀羅(359年-429年)と宝雲(449年没)の共訳*1の『新無量寿経』2巻ではないかと言われていますが、そう結論するにも疑問が残ります。

 その理由は、五悪段の部分にあります。これは明らかに『平等覚経』か『大阿弥陀経』からの抜粋だと思われます*2。私は、こういう抜粋を果たして上記の訳者が行ったのかという疑問をもっていました。『仏典はどのように漢訳されたのか』では、仏陀跋陀羅が『華厳経』の訳出の際に鳩摩羅什の『十住経』を転用していることを紹介しています。そういうことなら、すでにあったところから持ってくるということはあると思われますが、それでも、疑問になる点があるのは、訳語の統一がなされていない点です。

 というのは、以前にも書きましたが「諸天人民蠕動の類」という言葉が五悪訓誡の前後の部分(抜粋部分)にだけ見られるのですが、これは『平等覚経』や『大阿弥陀経』には全体を通じて出てくる言葉であり、本願文の中でも見受けられます。ところが、大無量寿経の本願文には、この言葉はありません。つまり別の言葉に変えられているわけです。疑問に思うのはここでして、他から転用するにせよ、訳語の統一はされると思われるわけです。たとえば、弥勒菩薩は、平等覚経では、阿逸菩薩になっており、これは弥勒菩薩に変更されています。何故この部分はなされなかったという点で疑問になるわけです。これは転用ということでは片づけられない要素があるように思えます。

 四番目の問題とからみますが、可能性としては転用時に梵本にはその部分がなくて(もしくは梵本を参照することができずに行った)、どのように変更するべきかハッキリと分からなかったと推察できるわけです。阿逸菩薩を弥勒菩薩に変更するのは容易なことですが、さきほどの諸天人民蠕動の類の原文は何を指しているかハッキリと分からなかった可能性があります。以前、十方衆生と書きましたが、そのような簡単な言葉ではない可能性はあります。

ということで、
三つ、転用とは思えないような抜粋の仕方をしていること。

四つ、『大無量寿経』の五悪段は梵本に存在しなかったと疑われること。

 これは、四十八願系の無量寿経である『無量寿如来会』*3や梵本*4を見ると五悪段の部分がそっくりありません。ですので、仏陀跋陀羅と宝雲が訳出した時点で、すでに存在しなかった可能性があります。

 ということで、考えられるのは、仏陀跋陀羅と宝雲の訳した『新無量寿経』を用いつつも、その時に失われた五悪段部分を『平等覚経』もしくは『大阿弥陀経』から抜粋し、体裁を整えて新たな『大無量寿経』を編輯したのではないかと思うわけです。そこに権威づけのためにその訳者を有名な康僧鎧としたということが言えるように思えてなりません。

 個人的には、この考えが一番しっくりいたします。但し、このような仮説はできても証明できなければならず、そういう歴史的証明を行っていくのはとても困難な作業ではないかと思われます。

*1:共訳というのは少しおかしいのですが、仏陀跋陀羅が訳主で宝雲は翻訳者として訳場に一緒にいたのだろうと思われるということです。五存七欠の七欠では、この二人の訳した新無量寿経が一つずつカウントされていますが、これらは同じものを指しているだろうということです。今五存七欠の七欠を見直したところ、もう一つ曇摩蜜多(424〜441)三蔵の新無量寿経2巻が出てきますが、この方も時代はほぼ同じなので、これらの三つは同じお経を指している可能性がありますね。ただし、仏陀跋陀羅が亡くなってから活躍された時代背景があるので、訳場は別だった可能性はあります。

*2:この抜粋部分は学者でいろいろ言及されています。一説にここは中国で創作された中華思想だというもの。瑞剱先生はこの説を紹介されていますね。また、ここを親鸞聖人は重視されなかったというようなことをいう方もいらっしゃいますが、 親鸞聖人は五悪段を確かに引用なされていませんが、抜粋部分で五悪段の直前の「横截五悪趣悪趣自然閉」という仏語は正信偈に引用されています。

*3:ただし、これらの本は無量寿如来会が唐代に訳出(693)されており、新無量寿経訳出から時間はかなり経過しています。

*4:実は、チベットに伝わる大無量寿経にもこの部分はありません。河口慧海さんが、チベットに行った際にこの失われた五悪段の部分をチベット語に訳して民衆に聞かせたという話がチベット旅行記にありました。チベットの方はこの話に好奇心いっぱいで耳を傾け、あるものは泣きながら聞いたというようなことが書いてありました。