機法一体

さて、機法一体について、先日勉強したのでまとめておきます。

 親鸞聖人は、機法一体の言葉は使っておられません、しかし、絶対不二の教、絶対不二の機と教えて下さっています。絶対不二の機とは、つまり信心のことで、絶対不二の教は、阿弥陀仏の本願を指します。これこそが本願一乗の究極の救いです。絶対の法と機であるのは、一乗法たるゆえんと言えますね。この二つは二而不二の関係にあるので、機法一体と言われるわけです。

 この言葉をお使いになっているのは覚如上人、存覚上人、蓮如上人です。傍流の書として、『安心決定鈔』の中でも機法一体という言葉が出ていますが、ここでは取り上げません。


以下、出拠は真宗大辞典です。

(一)覚如上人の願々鈔にでる機法一体

 願々鈔に「光明無量の願にこたへて信心歓喜乃至一念の機を摂益したまふ。その機はまた遍照の光明にはぐくまれて信心歓喜すれば機法一体になりて能照所照ふたつなるににたれどもまたく不二なるべし」この意は、阿弥陀如来の光明は因位の光明無量の願に応えて報いて信心歓喜乃至一念の機を摂取し照護し給う。その信心歓喜乃至一念の機は遍く十方世界を照らし照し給える如来の光明にそだてられて深信歓喜の心が出来たのであるから、機と法とが同一体となって、能く照らす光明と照らされる信心と別なるようであるけれども其の体は全く不二であると云う意味である。

 本鈔は光明と信心とを相対して機法一体の義を述べたものであって、信心を照護する所の光明を法と名け、照護せられる信心を機と称したのである。本鈔の文に遍照の光明にはぐくまれて信心歓喜すとあるは覚如上人の口伝鈔の第二章に「しかれば往生の信心のさだまることはわれらが智分にあらず光明の縁にもよほしそだてられて名号信知の報土の因をうとしるべしとなり、これを他力といふなり」とある意味に同じく、他力の信心は我ら凡夫の知識をもって構成したものではなくして、如来の光明力にそだてられて、ついに如来の願力を疑う心を破滅せられ、此に深信無疑の心が出来たのである。そこでこの信心の体も仏智なれば光明の体も仏智であって、その相につかば、能照の光明と所照の信心の二相あれども、その体につかば能照の光明も所照の信心も共に仏智であるから機法一体とするというが願々鈔の意である。けだし光明にそだてられて信心歓喜するというは宗祖の高僧和讃に「無碍光の利益より威徳広大の信をえて」とある意味によったものである。この願々鈔は信一念の位について機法一体を説いたものである。換言せば信一念の場合に機法一体になる趣きを示したものである。そこで機法一体になりての言葉をおいてある。本来機法一体なりというのではなくして信一念の場合に機法一体になるという説である。
(存覚上人の浄土見聞集に「光明は智慧なりこの光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり」とあるも願々鈔と同意味である)

(二)存覚法語の機法一体

 存覚法語には「佛の正覚は衆生の往生によりて成じ、衆生の往生は佛の正覚によりて成ずるがゆへに機法一体にして能所不二なるいわれあれば」という、この法語は、第十八願の若不生者不取正覚の誓いについて機法一体をかたったものであって、この文章は法然上人が「我等若し往生を遂ぐべからずば佛あに正覚を成じたまふべしや、佛若し正覚成りたまはずば我等また往生を遂げまじや。我等が往生は佛の正覚に依り佛の正覚は我等が往生に依る」『和語灯録巻六登山状の大尾』といい、安心決定鈔に往生礼讃引釈の第十八願文を揚げて「この文のこころは、十方衆生願行成就して往生せばわれも佛にならん、衆生往生せずばわれ正覚をとらじとなり。かるがゆへに佛の正覚はわれらが往生するとせざるとによるべきなり。しかるに十方衆生いまだ往生せざるさきに正覚を成ずることはこころえがたきことなり、しかれども佛は衆生にかわりて願と行とを円満してわれらが往生をすでにしたためたまふなり、十方衆生の願行円満して往生成就せしとき機法一体の南無阿弥陀佛の正覚を成じたまひしなり、かるがゆへに佛の正覚のほかには凡夫の往生はなきなり十方衆生の往生の成就せしとき佛も正覚をなるゆへに佛の正覚なりしとわれらが往生の成就せしとは同時なり」というに拠ったのである。そこで、十方衆生の往生を機と名け、佛の正覚成就を法と称して、往生と正覚成就とが同一体である所をさして機法一体を説いたものである。佛の正覚成就は願行円満の南無阿弥陀佛の名号が出来あがって衆生往生の道が開けた故である、換言せば南無阿弥陀佛の名号が出来あがったからである。また衆生の往生は佛の正覚成就の力によるのである、換言せば南無阿弥陀佛の名号が出来たからこれに依って往生を得るのである。ここを以て衆生往生の体も六字名号であり、佛の正覚成就の体も六字名号であるから、機法一体と称えたのである。

(三)蓮如上人の御文の機法一体

 御文第三帖第七通には「南無の二字は、衆生阿弥陀佛を信ずる機なり、次に阿弥陀佛の四字のいはれは弥陀如来衆生をたすけたまへる法なり、このゆへに機法一体の南無阿弥陀佛といへるはこのこころなり」と言ってある。このほか第四帖第八通第十一通第十四通にもこの説がある。この御文の意味。御文は六字名号中の南無の二字を以て衆生阿弥陀佛をたのむ信心のこととし、阿弥陀佛の四字を以てたのむ衆生を救ひ給う力のこととする。これは観経玄義分六字釈に南無と言ふは即ち是れ帰命なりとあって、その帰命を尊号真像銘文に釈して「帰命ともうすは如来の勅命にしたがいたてまつるこころなり」とある、之に拠って南無とは如来の勅命に信順したる信心のことであると為し、また行巻に「十方の群生海この行信に帰命する者は摂取して捨て給はず故に阿弥陀佛と名づけたてまつる。是を他力といふ」とあるに拠って、阿弥陀佛とはたのむ衆生を救う意味としたのである。そこで南無の信心を機と称し、その信心の対象たる阿弥陀佛を法として機法一体の旨を示したのが御文である。換言せば機とは衆生の弥陀をたのむ信心のこと、法とはたのむ衆生を助くる佛力のことであって、その信心と佛力とが一つの名号の中に一体に成就せられたる所を機法一体の名号というたのである。信心を何ゆへに機と称するかというに、行巻に「金剛の信心は絶対不二の機なり」とあるに依ったものであって、信心そのものを直ちに機とするのではなくして、信心は機の方に属するものであるから之を機と呼んだのである。それ故に御文第四帖第十四通には「南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり」とある。

 そもそも我が真宗にかたる所の信心は吾人の知識や情意を以て構成したものではなくして、阿弥陀佛の活動が吾人の心中に徹底して南無の信心となったのである。即ち吾人の南無する心が直ちに阿弥陀佛の全現であり、阿弥陀佛はまた常に活動して吾人をして南無せしむることに由りて自ら完成するのである。恰も版木の左文字が紙面に押されて右文字となって現れるるがごとく、阿弥陀佛のはたらきが吾人の心中に印現して帰命の信心となるのである。是を南無を全うする阿弥陀佛という。もしも南無を全うぜない阿弥陀佛であったならば絶対的他力救済ということが成立たない。既に機の方に属する信心と佛の方に属する救いのはたらきとは各別なものでなく本より同一体であることを示すが機法一体の義である。故に御文第三帖第七通第四帖第十一通同第十四通みな機法一体の南無阿弥陀佛というて一の名号の上に機と法とが具はっている旨が説かれてある。利井鮮妙の安心決定鈔には、一体とはたすくる法の外にたすかるの思ひあるにあらず、たすける法の聞ゆるとき然ればいよいよ助かると思う心がたのむ信心なり、阿弥陀佛はたすくる方、南無はたすかる相、此たすくるままが助かるとなる是を機法一体というのである。

 問、すでに機法一体にして名号中にたのむ信心を成就すといはば、吾人は信心を発さずとも可とするか。答、我が真宗の他力信心は吾等凡夫の方にて信心を発起するのではなくして佛より信心を貰ひ受くるのである。足利義山の真宗安心三十題啓蒙にはたのむ機をも法の方に成就するということを詳らかに弁じてあるが、その意に依るに古来二説あって、一は能帰の信心の法則を成就するといい、他の一は能帰の信心を己に成就するといってある。若し前説の如くならば未だたのむ機を成就するとはいわれない。また後説の如くならば法の上に未信者の信心が出来ているといわれねばならず欠点がある。故に二説共に不可なりとせねばならぬ。法体上にたのむ機ありとは法体摂取の徳用の義別ともいうべきものにて、其の法体が衆生の方に来たりてその相を現わし無疑の信心となることをいうのである。阿弥陀如来がたすくる用きの外に別に衆生の信心をこしらへているというのではない。若し如来の手許に別にたのむ機をこしらへてあって、その機が来って衆生のたのむ機となるならば機機一体というべしと論じてある。即ちたすけ救うの法体が衆生の方に徹到してたのむ新人となる義を具えていることをいうとするのである。

 さて、前に言ひし所の願々鈔の説と今の御文の説との別如何というに、願々鈔は前にも言った如く信一念の場合に就いて機法一体のを論じたものである故に機法一体になりてとある、になりての言葉に注意せねばならぬ、また御文は佛の成就し給へる上に於いてかたる即ち機と法とは本来一体に成就しているというのである、そこで御文第四帖第八通には「南無と帰命する機と阿弥陀佛のたすけまします法とが一体なるところをさして機法一体の南無阿弥陀佛とはもうすなり」とあってになるの言葉がない。さて宗祖の上には機法一体の名目がないけれども、すでに信心を以て他力の信心であると説いて、名号が機の上に信心と現れるのであると示し給へば、機法一体の義があることは明らかである。高僧和讃に「無上宝珠の名号と真実信心ひとつにて」とのたまふ如きは名号と信心との体一なる旨をしめされたものにしてこれが即ち機法一体である。

 以上、願々鈔ならびに御文の機法一体説は往生の正因たる信心は他力に依って成立する旨を顕し、存覚法語の機法一体の説は他力に依って往生する義を示されたものである。

(四)彼此三業不相捨離の釈について

 さて、御文第三帖第七通には機法一体を説明して次に「これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして善導和尚は彼此三業不相捨離と釈したまへるもこのこころなり」とある。古来この文に依って信後相続の上に就いて機法一体を立つる説がある。其の説の意は信の一念に佛所成の三業の功徳を領得するが故にその三業の功徳が衆生の信後相続位に顕現して口に称え身に礼し意に憶念する三業となる。そこで、佛の三業と衆生の三業と一体になるところを機法一体とするというにあり。

 彼の御文は衆生の三業と佛の三業と相離れずして親しく相合することを以て、其の本を尋ねれば南無と阿弥陀佛との機法一体であるから親しく合して相離れずと示した文であって、信後相続の上に於いて機法一体を説明する文ではないと思う。

 そこで、衆生の三業と佛の三業と一体になるとある一体とは、彼此一致してゆくを一体といったものであろう。


(五)西山の機法一体

 因みに西山流の機法一体を略述せば、南無は機なり、阿弥陀佛は法なり、南無はたのむ心であって此の心は衆生の発起する所である。阿弥陀佛は佛体即行というて佛の尊号が衆生往生の行である。この佛体にて衆生を救う、そこで衆生のたのむ心と阿弥陀佛のたすくる法が相合して一体になるを機法一体とすると云々する。