仏の智慧には叶わない

 これは大智度論の物語(二)に出てくる内容で、先生もよく話されたものです。

 舎利弗智慧がお釈迦様に比べていかに小さいかを示した話です。

 ある時、鷹に追われた鴿がお釈迦様のところにやってきました。お釈迦様が三昧から立ち上げって歩いておられると鴿に影を落としたのですが、鴿はそれまでの驚きはなくなり、安心しきった表情をしております。ところが舎利弗が今度鴿に影を落としたのですが、また、前と同じようにあわてて落ち着きがないようになりました。

 舎利弗はお釈迦様に質問します。
「私とお釈迦様は三つの煩悩を退治しているのに、なんでこのような違いがあるのでしょうか。」
 そこでお釈迦様が答えます。
「あなたは三つの煩悩を退治したと言っても、その習気をまだ尽きていない。そのために汝の影が覆ったとき、鴿に恐怖が除去されなかったのだ。汝はこの鴿が代々どのような因縁を追ってきたのか観察しなさい。幾代の世代にわたって鴿だったのかを。」

 そこで、舎利弗は、宿命智の三昧に入りました。するとその鴿はその前の生も鴿から生まれてきています。その前、その前と鴿の前生を見ていくのですが、八万もの大きな劫を見てみても、鴿のままでした。

「この鴿は八万もの劫の中で、鴿の体をしていました。それ以前は私は見ることができませんでした。」

 お釈迦様は仰いました。
「汝はこの鴿について、その前世をことごとく見ることができないなら、試みにその未来世を観察して、この鴿がいつになったら、鴿から脱すべきかを見てみなさい。」

 そこで、舎利弗は願智三昧に入りました。一代、二代とずっと未来を見て八万という劫の間、鴿の体を脱することができないのを観察しましたが、それをすぎて未来についてはもはや観察することができませんでした。

 そこで舎利弗は、三昧から立ち上がって、お釈迦様に申し上げました。
「私が観察したところ、一代、二代から八万という劫までは、ずっと鴿の体を免れないのを見ましたが、それをすぎて、未来はもはや私には見ることができません。私は、過去も未来もこの鴿がいつ体を脱することができるのか見ることができません。」

 お釈迦様は舎利弗に告げました。
「この鴿はガンジス川の砂の数ほどの無限の数の大きな劫の中で、鴿の体をなしている。そして、その罪を終えて初めて、鴿の身から出て五道の中に輪廻して生まれるようになり、そののちやっと人となることができる。そしてそれから、五百の世代を経過して初めて聡明な素質を得る。そうすると、そのとき仏がおり、無量の数えきれないほど多くの生あるものを彼岸に渡らせ、そののちに、その仏は欲望の全く残らない涅槃に入る。その仏の残された法が世間になおあって、この人は五戒を守る信者となる。そして比丘から仏をたたえる功徳を聞き、そこで初めて発心を起こして、願って仏になろうと欲する。それから三大阿僧祇劫という長い間六波羅蜜を修行して、十地をそなえ、仏になることができる。そして無量の衆生を彼岸に渡らせ終わってから、涅槃に入るのである。」

 このとき、舎利弗は、懺悔して仏に申し上げました。
「私は一羽の鴿についてさえ、過去も未来も見ることができませんでした。まして況やもろもろの法に関しては、及びもつきません。仏の智慧の広さを知って懺悔せずにおれません。」

 一切智の仏の智慧の深さを私たちは信じておらず、また、自分の方が素晴らしいくらいに思ってないでしょうか。そういうことを教えさせられます。