龍樹、空の論理と菩薩の道 (2)

P31に、浄土の黄金の表現はクシャーナ王朝時代にローマから大量の金が入ってきたことが影響しているという説明があります。
これは藤田宏達氏の薫陶を受けたのではないかと疑われる記述ですね。

藤田宏達氏は浄土信仰を土着信仰などに起源を探そうといろいろ考察をされた人ですが、このような学問は本当に馬鹿げていると思っています。

明らかに浄土を観察したことがない人間の考え方なのです。浄土の菩薩方は燦然と黄金色一色に輝いたお姿をしているのです。
観察ができない人間には想像もできないから、このような馬鹿げた説を考えだすのです。

私は昔学生時代たいそう煩悩に苦しめられたことがあります。ある夜、夢の中で菩薩の姿を拝見したことがありました。
それは黄金一色の大変綺麗な姿でした。あまりの綺麗さに次ぎの日に呆然としていたほどです。

どのように呆然としたかといいますと、次の日見たどんな綺麗な人も夢で見た綺麗さに比べたら雲泥の差、月とすっぽん
ほどの開きがありました。それでたいそう煩悩が安らんだのを覚えているのです。

このような夢が私の妄執なのかというとそんなことはありません。これは釈尊のお弟子への指導にこんな話があります。
私は、この話を読んだ時に、私の夢が本当に納得がいったのでありましたし、阿弥陀仏の清浄光というのがまさしくこのような働きであることに篤信が行ったのでした。

その弟子への指導とは、お釈迦様の従兄弟の難陀への指導でありました。

お釈迦様が出家されてから、浄飯王は、もう一人の子供である難蛇(摩訶波闍波提との子供)に後を継がせようとしたのです。
難蛇は結婚相手が決まっており、それはたいそう綺麗な方でした。ところがそんな時にお釈迦様がカプラ城に戻られて、なかば強引に難蛇を出家させてしまいました。

難蛇は出家したものの、綺麗な奥さんのことを思い出すととても修行に身が入りませんでした。そこで、お釈迦様にありのままを打ち明けて、いっそのこと、城に戻ろうかと思うと悩みを打ち明けたのです。

お釈迦様はその時に取られた方便が私の夢の効能とよく似ているのですが、そのとき釈尊は難蛇を天上界に連れて行かれました。その途中、難蛇はヒマラヤ山にいる雌ざるを見ます。天上界に行くとそこでは綺麗な天人を拝見しました。

難蛇はあまりに美しさに今までの悩みが吹っ飛びます。そして前思っていた奥さんは今拝見した天人に比べたら
さきほど見たヒマラヤ山の雌ざるようなもので全く魅力を感じないと申し上げて、それから修行ができるようになったと言います。

ここでお釈迦様のご方便は、まるで私が夢で見た光景とそっくりです。黄金金色一色の菩薩の美しさはこの世のものとはいえないのでして、決して黄金が回りにあったからそういう話が出てきたというようなものではないと体験させられています。

私夢でいっぺんを垣間見た程度ですが、こういう観察ができた人ならば、学者の説がいかに馬鹿げた妄想であるか知れるでありましょう。
仏教というものは、決してそういう原始的な土着信仰や迷信やその当時の時代背景が起源ではないのです。