『親鸞「四つの謎」を解く』を読んでいます
親鸞聖人を「親鸞」と呼び捨てにする本は好きでなく、信仰の参考にはできないのですが、それでも読み進めています。
呼び捨てにする風潮になって長いのかもしれません。Xプロジェクトだったでしょうか、テレビでも人の名前を平気で呼び捨てにしていますね。あんな番組を作る人の心持ちはどういうつもりなのかとよく思ってしまいます。
前ある信者さんで、呼び捨てにするのはかえって親しみがあってよいと言っていた人がいましたが、それは違うと思います。そんな呼び方の中で仰信などあろうはずがありません。
「言葉は心を生み、心は言葉で表現されます。」
ですから、言葉を正しく使って初めて正しい信仰に至るのでしょう。
以前、大谷派の学者の書いた蓮如上人の御一代記聞書の解説を読んだ時に思いましたが、その中で、蓮如上人は、
「ただ「聖人」と直に申せば、聊爾なり。「この聖人」と申すも、聊爾か。「開山」とは、略しては申すべきかとのことに候ふ。ただ「開山聖人」と申してよく候ふと[云々]。」
とおっしゃっておられますが、この解説が全く呼び捨てで書かれているのですよね。ただただ、あきれたという状況で、字を読んでも心は読まずというような状況です。
呼び捨てにするような人が聖人の信仰を正統に説明されているとはとても思えないのですが、それでも取り上げている内容は確かに聖人の伝記の中であまり多く説明されていない部分だと思います。
親鸞聖人伝として「親鸞正明伝」を紹介しており、佐々木正さんの「親鸞始記」という本の和訳で読んでおりますが、おもしろいですね。
確かにこれは偽作などと片付けるべきではなくて、親鸞聖人のことが記されたものとして読むと感じるところが多いです。仕事に追われてまだ最後まで読めていないので読めたらまた書きたいと思います。