相待と絶待

「龍樹・親鸞ノート」を読んで「そうなんだなぁ」と思ったことがあるので書いておきます。昔の仏教の本を読むと書いてあることが多いのですが「相待や絶待」という字をよく使われています。その理由を特に考えてきませんでしたが、そうかもなぁと思ったので、以下に引用しておきます。

 龍樹が用いる特別な術語に、(パラスパラ・)アペークシャー(apeksa)というのがありますが、それは「相関」−他のものと相い関係し合う、また「相依」−相い依り合う、それから「相待」とも訳されます。
この「相待」という語は、「相対」という語とよく誤解されますが、両者が根本的に異なる点は、「相待」は他のものを待っているのです。たとえば、私は執筆者という名目でいま文章を綴っていますが、実は読者を待っているのです。読者がいなければ、私は執筆者でもなんでもない、一介の、かなり年老いた、たんなる男にすぎないのですけれども、読者が読んでくださる、待っていてくださるから、私が執筆者というありかたであるわけです。それからまた逆に、読者のほうについても、同じようなたぐいのことがいえるでしょう。執筆者とは読者とは、そのようにお互いに待っているのです。

 ところが「相対」の方は、「対」で対立ですから、たとえば先生と生徒が対立し合っている、ときには学校紛争なり校内暴力なり何か起こりそうな、そういう感じがしてきます。この「対」はドイツ語でゲーゲン(gegen)といい、英語でいうとアゲインスト(against)であって、ぶつかり合い衝突し合います。ですから、そういう西洋的な考えかたでいうときには、「相対」を使います。したがって、たとえば仏教では「絶待」「相待」と書きますが、西洋のことばを翻訳するとき、たとえば英語のアブソリュート(absolute)を訳すときは、「対」のほうを使い「絶対」とします。もちろん「対」という字は「つい」とも読みまして、ペアという意味にも使いますけれども、ふつうは「対」というのは対立する意味です。そして、対立し合っている場合には、一応両者に共通の地盤が考えられるているとしても、両者はそれぞれ互いに違うものとされます。西洋の考えかたによれば、たとえば神と人間は全く違う存在であるとされて、「絶対他者」(das ganz Andere)と呼ばれます。お互いに待っているわけではありません。いろんなものが、そこではみんな対立し合っています。男も女も対立し合っているし、保守と革新も対立し合っているし、あちらこちらで対立していて、その面をごく簡略化し単純化していいますと、それがいわゆる個人主義というものに結びついて行くことになり、すぐれた面もありますけれども、とかくギクシャクしているところもあります。

 そういう点では、いわゆる東洋思想は対立し合うのではなく、お互いに待ちあっており、一緒になって一つものができてくるということになります。