継子(ままこ)根性

 数時間、息子を友達に預けて、かみさんが用事に出かけました。保育園に預けていた時期もありますが、久しぶりだったから、どうなるか少し心配でしたが、息子は友達の家で普段と違って「行儀よく」していたそうです。

 その話を聞いたときに、表題のことを思い出しました。自分の親には息子は気兼ねなく甘えますが、そうでないとやはり継子根性でいい子ぶるんでしょうか。
 
 雑行の話もそうでありますが、私たちは阿弥陀様をまことの親と思えないのです。そのために、継子根性といいましょうか、継子のような状態になっているんですね。いわば阿弥陀さんと私に垣根があるわけです。

 先生はこの話をよくしてくださいました。

 ちょうど庄松同行の話の中にも次のような話がございます。それは庄松同行が富田村の菊蔵と三本松勝覚寺へ参詣し、庄松が本堂で横に寝たれば菊蔵これを咎めたときの言葉で、庄松がいうには

親のうちじや遠慮には及ばぬ及ばぬ、そういうおまえは継子(ままこ)であろう

 垣根があるということは、結局、心を閉ざしているということでしょう。

月影のいたらぬ里はなけれども 
       ながむる人のこころにぞすむ (法然上人)

阿弥陀には隔つる心はなけれども 
       蓋ある水に月は宿らじ (蓮如上人)