輪廻思想の検討

 近代の仏教学者は、この輪廻思想が無我思想と背反しているとして無我思想が仏教の教えならば、輪廻思想は迷信であると決めつけたわけです。

 これを裏付ける根拠としての無記というのをあげているわけです。

 さて、無我思想は、無我であるという事実に目覚めるまでは、迷いの中にいるとしていることをいうもので、無我だからといって迷う主体があることを許さないのは少々疑問です。何故なら、たとえば生物として生まれるからには、何かしら個体があるべきですし、全て事物(心も含めて)には形があるように存在します。その個体を実体化して理解するのがいわゆる「我」への執着であるので、この無我というのと個体的な私があることとは決して矛盾していないことになります。つまり無我は勝義における我々のありようを教えたもので、それを間違えてとらえたところに煩悩が起こり、それが元になり輪廻の業が作られるのだというわけです。よって、この業が次の生を生み出す力となるというわけですから、この力によって、我々は次の生に輪廻転生していくのです。よって無我ということと全く矛盾しないと思われます。

 これを矛盾と理解するのは何かこのあたりの理解の間違いから発生しているのではないかと思います。また、この輪廻説を実体的に説明したのが、阿頼耶識という考え方であって、阿頼耶識を業の力の格納場所として考えたわけです。ただし、この考え方は宗派により異なるので、こういう考えが仏教の代表的考え方だと理解しない方がよいと思います。

 現在の科学は心を脳のような物質の上に仮設されたものという考え方をします。心は物質に従属しているという考え方です。ところが仏教は心と体を切り離して論じることが多いのです。逆に唯識派などは、心から物質が仮設されると考えますね。このように心をもっと上位にとらえることが多いわけです。輪廻の説明も質量因という言葉で説明します。つまり心は心によってのみ生み出されるということです。物質から生み出されるわけではないというのです。

 前にも根拠としてあげましたが、以下のようなお言葉が『摂大乗論』の中に大乗阿毘達磨経の一説として出てまいります。

無始時来の界は 一切法等の依なり
此れに由り諸趣有り、及び涅槃を証得す。
『摂大乗論』

 これは『宝性論』の中でも取り上げられており、

無始世来の性は、諸法の依止と作る。
性に依りて諸道有り。及び涅槃の果を証す。
『宝性論』

 これらの二つはチベット語は全く同じなんです。訳が異なるだけです。

 つまり輪廻の根拠として一方では阿頼耶識を、一方では如来蔵を示していると言えるわけですね。これから、輪廻思想と如来蔵思想というのは、非常に密接な関係であることが分かります。