教行信証は漢文のままいただけ

教行信証』は漢文のまま頂け

 とは、瑞剱先生の教えです。

 漢文のまま頂けとは、漢文で書かれたものは漢文のまま読みなさいということです。漢文のまま読むというのは、漢字を上から下に読めということではなく、漢文を見ながら読み下して読んでいくということです。

 教行信証親鸞聖人の法身である

 これは利剱先生のお言葉です。瑞剱先生のお言葉は、これを受けられており、法身との対面は書かれたものに人格の接触があるので、そのまま頂くことでお育てがあるというところを強調されています。

 それなのに最初から読み下した文ばかり読んでいては、人格の接触が足らず、よってそこからのお育ても少なくなるということでしょう。また、瑞剱先生は、できれば御真跡本のコピーなどがあれば、それを頂けと言われています。

 先生が以前古本屋で教行信証の複写本を手に入れたことがあり、瑞剱先生にそのことをお話ししたことがあったそうです。そしたら、たいそう褒められて、それを毎日頂け、破れるほど頂けと仰ったといいます。

 ですから、私たちは教行信証をそのまま頂くようにしないといけません。

 また、漢文と書き下しですと微妙に意味が異なることがあります。これは勉強していたときに私が思ったことです。
 たとえば、以前の団体で大切にしていた三願転入文も次のような漢文になりますね。

是以愚禿釈鸞、仰論主解義、依宗師勧化、久出万行諸善之仮門、
永離双樹林下之往生、回入善本徳本真門偏発難思往生之心。
然今特出方便真門転入選択願海、速離難思往生心欲遂難思議往生。
果遂之誓良有由哉。

 漢文でみますと、ここで「久」は「出」という動詞の修飾語であることが分かりますね。
ところが、これを読み下すと、「久しく万行諸善の仮門を出でて」となって、あたかも久しくは、万行諸善を修飾しているように見えますね。このような違いが出てくるわけです。こういう違いは実は多くあるのです。

 久しくが出るを修飾するとなると、この文は「長らく諸善万行を行った」という意味ではないですね。このような読み方をしているから「諸善をせよ」というようなおかしな解釈になってしまうのです。聖人はここで、「久しく出でる」と「永く離れる」というお言葉を対にして使っておられます。真門に早く入っておられた聖人の姿が浮かび上がります。この御文は真門の功徳を讃嘆されたものですから、聖人の力点はそこに置かれているのです。

 聖人は早くから源信僧都の御勧化によって、堂僧として常行堂で不断念仏の行をはげむ念仏僧でありました。早くから万行諸善の仮門を出ていたということを述懐したものでしょう。

 ただし、法雷の意から言えば、ここで真門の功徳を説かれているからと言って、自力の称名念仏を勧めるのは間違いです。あくまで真実を勧めるのが真宗の意になります。