慈悲について(息子が帰ってきました)

 息子が帰ってきました。

 西安の仏教施設に入っていたのですが、教育を受けてずいぶんわがままが矯正されて帰ってきました。
 仏教では、慈悲は訓練で起こすことができると教えています。人間は自分中心の考え方で生きて長い過去の習慣があるせいでどうしても他人の心を気遣う心よりも自分のことを先に考えてしまいがちです。それを訓練でだんだんに他人のことを中心に考えられるようになるようです。それには、自他の交換というような修行や、すべての人は過去世において自分の母だと観想して、たとえ敵でも慈悲の心が起きるような修行をするのです。

 ただし、慈悲は貪や瞋の退治ではないので、煩悩が弱まることはありますが、根本的な退治には無我の修行をする必要があります。無我の修行をすることで、慈悲は小慈悲から中慈悲とだんだんと高尚なレベルにと昇華されて、最後には仏の慈悲(大慈悲)にまで到達できると教えています。

 大慈悲のことをを無縁の慈悲ともいいまして、相手を選ぶことなしに、自然に救いが発動されるようになるわけです。仏様はその慈悲が永遠に続くことから、慈悲を寿命とされるわけですね。

 聖道門でも慈悲の心(菩提心)を起こしたものは、もう地獄に落ちることはなく仏子といわれるといいます。何故なら他人を傷つけよう思わなくなるからです。
 浄土の菩提心を起こした人も、地獄に落ちることなく真の仏弟子といわれますね。よく似ており面白いです。

 聖道門の人は、この菩提心を起こすことを一つのマイルストーンとして大変な努力をするようです。そこまで行くのは簡単なことではないし、なかなか到達もむつかしいようです。
 浄土門では、阿弥陀仏のお慈悲を丸もらいするところで達成できるわけです。