叢林集の学問の引用

先日、慧空さんの書いた叢林集の学問について、友達に話をしました。

慧空さんは、本願寺大谷派の講師の方で大変有名です。

少々、引用したいと思います。これは国立国会図書館のデジタルライブラリから見ることもできます。

学問

 仏法東漸の理、玄奘西記の旨を思うに、若し生を正像の世に受けたりとも、日域ならば何をか聞かん。設ひ身を天竺に感じたりとも、末法ならばいかがはせん。今幸いに法に遇ひ、代また静かにして障り無し。

 足を動かせば師に謁す。渡天入唐の労無く、耳を傾ければ法に富たり。筆骨紙皮の苦無し。宝山に入りて甘露を得たり。山樵田夫の類まで朝夕願いて聞法す。

 寺職院主の身、何ぞたまたまも法を求めざらん。自から法を知らずんば、何を以てか人を誨えん。一盲衆盲を引いて坑に陥らんが如し。僧侶若し不学ならば今世の謗り来葉の歎き、何とかせんと思う。

 縱ひ衣食の道は闕けるとも、学文に疎略あるべからず。又たまたま学ぶとする人あるを見るに、行の為に、解を求めるに非ず、勧化伝法の為にするにも非ず、或いは我慢勝他の心にして、人の知らざる事を、尋ね出だして、我物知りと云われと欲し、動もすれば先達後進の学匠を謗り、

 或いは、名利芸能の分にして他門の教理を求め好みて、結句自宗の書籍を軽しむ。鼠雀問答に云うが如し、人ありて法を問うあり、唯自己の弁舌にまかす。人ありて義を答う。只各々の利口をとく。問答ともに式目を守らず、何れを是とし何れを非とせん。只いたずらに声をたかくし、面をいからして、ついには古来未決の義に落居す。問うところ殆ど捫象のごとく、答えるところ蓋し陳乳にひとし。名目を決せざるがゆ
えなり。

 或いは、たまたま学に志すの人あり、他宗に走りて教相をならい、推して自家の宗義を慮るあり、自家の名目にくらければなり。

 或いは、まれに学者を導く人あり。余宗の名目を講ず。類して我宗を察せよとにや。
 或いは、儒学文章を能とし、或いは詩聯句俳諧を芸とするあり。仏弟子何の暇ありてかかる事をせん。只、是宗義の学道にまどえるなり。

 或いは、一箇あり。衆を集めて説法す。顕題する本文は今宗の判釈なりといえども、講義をきけば、みな恐らくは他家の教相をのべ、余宗の名目を談ず。顕題の文に符号せず。今師の本意に叶うべからず。誤れるの甚だしきなり。已上、此の述懐尤も痛むべし。

 誠に小僧読書の初めより鎮西、西山の鈔記を習いて壮年の後までも家の書を見ず、適ま、纔に披覧することあれば、他家の累習の義に眼覆いて、還って我が宗義を怪しみて横さまに胸臆の料簡を加え、種々の書を新作して流布せしむ。尤も錯まれり。尤も恐るべし。

 或いは又楞厳法華倶舎唯識なんど、走り回り尋ね聞き、大切の末書等、数を並べて嗜み持てり。然して浄家自流の書は流布の纔かなるをだに見ず持たず。専ら聖道門の末学たり。何を以てか浄土の学者と云わん。寺役法談の時も、さぞ彼の習ひたる聖道秘蔵の義趣を演べつらん。彼の類思へらく、浄土門の書は、すべて古記少なく又浅近たり。況や我が一流は祖師以来経論を釈したる鈔無く、法門を委しくする記無し。まず大体は他家を知り、然して後一流を一籠(ひとこ)に尽くすべしと云々。是あさましく勿体なき事なり。

 彼が少なしという浄土の書だに尋ねず読まず何ぞ多く広き他家を知らん。又彼れ浅しという宗義をだに聞かず、争か深き余門を能くせんや。自家の書数少なしと軽ろしむらん事甚だ謂れ無し。老子が両篇。黄石が一巻。少なしと謗る者無く、大般若の多き巻、小経心経の短き典。その浅深を量るべからず。況や、五祖の釈六巻の書、其の外の家の書厳然として箱に満り。百年の修学も奥を尽くすに足らず、一期の短き齢何ぞ他学に年を積み自門に日を浅くせんや。若し家を習わずば、三経も他宗の経たるべし。能く宗に達すれば、大蔵も自家の経となりぬべし。汝聖道の性相を学び得て何にかはせんとするや。

 又浄家の異流を聞き並べて判談せんとやはする。四虵怒り易く二鼠制し難し。片時も早く自宗を習いて伝持勧誨とすべし。南都の両寺には儒学を禁じられるとかや理りなるべし。浅きを汲み往けば深きをも汲み取り、近きを歩み行けば遠きも近くなる。易きを学びゆけば難しきも易くなるべし。設ひ一切無碍に学ばんと思うとも、自家の衡門より学び入るべし。誤ってまず他学することなかれ。必ず懇ろに自宗を習らうべし。

 但し、此れに就いて一つの所存有り。謂く、今世の人強いて学問を事とせば還って出離の怨みと成るべきか。此に三重の義あり。

 一つには、世下り人悪しきが故に、たまたま勤るも名利勝他のためと志し、我慢諍論のたねとなる。是を以て、四十華厳十二(十三丁)に云く、牛は水を飲んで乳を成す。蛇は水を飲んで毒を成す。智の学は菩提を成じ、愚の学は生死を為す。已上。学者多く此の虵類なるべし。

 二つには、浄土門の人は殊に智者のふるまいをせず、愚痴に還るべきが故に。頑魯を正機とすべきが故に、されば先哲も書物ふところにして東山西山走り回るほどの人の臨終めでたきを見ざると云へり。黒谷の云く、智慧は往生のためには要にも立つべからず。已上。実に小智は菩提の妨げなるべし。

 三つには、今家の人は取り分けて学慧を好むべからず。然るは聖人内に宏智の徳を備えると雖も、名を碩才道人の聞きに衒うことを痛み、外に只至愚の相を現じて、身を田夫野叟(そう)の類に祈(ひとし)うせんと欲し、人師戒師と云われんことを厭い、僧ぞ法師と申すもうき事なりとて、自ら愚禿となのり給へり。随いて広く経論に抄記を作らず、法門論議の式も無し。学寮衆領の談所を構えず、修功年臘(ろう)の式法を用いず、我は教信沙弥の定なりと言へり。家に古抄少なしと云うも理りか。

 此の流れを汲む人ゆゆしく広き学文沙汰せば、尤も祖師の御意には叶い難きからん。習ひて種々の義を存せば即ちはからいにも成りぬべし。他力を信ぜんには解智はいらず、中古以来、指して学文沙汰もせず、物知り顔も無くて、法談とても名ある老僧のたまたまの事を聞こえしに、当時は小僧同宿まで学文とて、ひしめき、我れ知り顔にふるまい、行くへもなき事とても、かたことまじりに法談す。甚だ荒涼たり。笑うべし、恐れるべし。真宗の正意、これが為に乱れ、無上の法流、これが為に濁れなんとするか。是皆学文沙汰の盛んなるが致す所なり。此くの如く三重の恐れある故にしばらく学文をさしおきて、まず安心を習い、法儀を本とすべし。何の不足あってか有らんや。経には是を広大解者とは説かれたれ。又、後世を知ると智者とすと。云々。

 安居院の宰相法印の大小経典の義理は百法明門の暁をまつべしと云えるは、至極の教化なるべし。彼の気情散学の人々はこれを聞き欺き謗るべし。本より他見を制する上なれば、かくまでも記すものなり。

 心は甚だ尽くさざるのみ。かえすがえす外典を習うべからず、十輪経の四(初丁)に好みて外典を習うを非梵行非沙門と誡めたり。又法顕所訳の涅槃経には、世間の典籍を以て人を教えずと云へり。又強いて詩歌作文の道をも好むべからず。法皷経に文筆魔法を毀すと誡めたり。今言う所既に一流の学だに然るべからず。況や他流の学をや。何に況や諸教をや。あなかしこ、あなかしこ。諸宗の伝法を障るに非ず。ゆめゆめ一家の本意を守るべしとなり。然れば流れを汲む人誰か源を尋ねず。宗を護る僧、争か妨げを防がざらん。学文せずんば是をいかがせん。一巻の聖教を眼にあてて見ること無くば、一句の法門をいひて人を勧化することも無けん。深く三経五祖の旨を学び、四部九帖の伝を習ひて、六巻の本書十冊の末抄等、其の意を窺い得つべし。念仏者の十楽、おぼえざらんは無下の事なりと先哲も云わるをや。

 上件の趣、初めには学を勧め、次には還って学を誡め、後には亦学を勧む。所学の法に依り、能学の人に依り、勧誡の際を弁え、宗の安心を学びて、若し功成りて余力あらば放つに逸学遍歴すべし。尤も一宗の龍虎を称すべきのみ。

 夫れ、顕密の経論は庫を開いて見るべき有り。希にも難得者宗義己証の宝典なり。又諸家の教理は、脚走して聞くべき易し、再び聞く聞く事無きは、古老先哲の伝持なり。懇ろに尋ね見るべし、懇ろに尋ね聞くべし。必ず宗を傍らにし家を後にすること勿れ。文を専らにせんより、義を懇ろに習うべし。又初心の人大事を聞くべからず。小器に大法を入れんとする爾るべからずと。十輪経の第六に見えたり。況や小器も器たらざるをや。たとえ不学の人を見るとも貶むべからず。己が鼠手、満たすといえども幾ばくぞよ。又当家は学智を事とせずとて自ら一字をも学ばず、還って他人の学を妨げんとすること甚だ然るべからず。

この後、仮名聖教の説明が続きます。仮名聖教を軽しむなという教誡です。