「倶舎論註、ウパーイカーの研究」を手に入れました

 先日、仏教書籍の古本屋の東陽堂書店に行ってきました。

 あそこのおかみさんには顔を覚えられているのか、どういう理由か分かりませんが、いつもいくらか安くして下さいます。(それ以外の方が席に座っている場合があるのですが、そういう場合はディスカウントされません。)

 仏教書籍は値引き交渉するのもどうかと思って値引きをお願いしたこともありませんが、おかみさんは何も言わずとも端数を除くなどのディスカウントをしてくださいます。(ただ、みんながそうでないようです、一度、値引き交渉されていた人がいて端で聞いておりましたが、散々な結果でしたね。その時は男性の主人さんだったこともあるかもしれませんが…)

 まあ、久しぶりだったので、あれこれ見ていると、次の本が目につきました。


 「倶舎論註、ウパーイカーの研究」 本庄良文

 この本(上下の2冊)も端数を切って譲って頂けました。大変ありがたく思いましたね。

 さて、この本は大変良い本ですね。今順次読み始めています。倶舎論の註ですので、倶舎論の勉強になります。

 実は、チベットポタラカレッジへ今でも通っていますが、途中からですが倶舎論の講義を聞いておりました。すでに終わってしまったのですが、今一度勉強したいと思いながら、良縁が無かったような状況です。

 上記のカレッジは人気のない講義は次はあまり開かれません。個人的には、何度もやってほしいなと思っているのですが…

 私の先生は、真宗木辺派錦織寺正信偈の講義を何年もされていました。そんなこともあり、よく次の話をされました。ある有名な御坊さんが、お子さんに勉強をさせるときに「正信偈を勉強せよ」と言われたらしいです。そのお子さんが一度勉強が終わりますと「終わりました。次に何を勉強したらよいですか?」と聞かれたそうです。そしたら「もう一度せよ。」と何度も正信偈を勉強させたと言われています。「同じことを何度も何度も頂いて行くんだ」と教えてもらいました。

 良書は何度も読んでも新しい発見があります。私は「チベットの般若心経」という本を何度も読みましたが、それでも分からないところがあったため、その著者が実施されていたその本の講義を聞きに参りました。そうすると、読み間違いなどを指摘されたり(「こう読んではならないですよ。こういう意味ですよ。」と教えてもらえたり)、注の中で分からなかったところが分かったりとやはり生で講義を聞いてよかったと思った体験があります。

 本を読んでも分からないという所にまず行くべきでしょうか。私は以前の会の人によく私の先生を紹介しましたが、実際足を運ばれた人は少なかったです。これはご縁の問題だとは思います。縁が熟すとは、本などをよく読むところから始まるのでしょうか。本を読むと「読んでも分からない、ここを聞きたい。」と思う所に行くのですよね。それで実際、足を運んで講義を聞きに行くのです。そんなことを思い出しました。

 まあ、上記の倶舎論を少しづつ勉強したいと思っています。