観無量寿経の無言の部分

 前いたところでは、観無量寿経について、いくつか不自然は教えぶりをしておりました。いたころから少々不可解に思っていたことでしたが、次のあげてみたいと思います。

  • 1 「世尊は威重にして、見たてまつることを得るに由なし」の解釈について

 これを「世尊は神通力があるために、私の状況を知っておられるでしょう」と解釈していましたが、これはとてもおかしい。「世尊は威徳深重でとても拝見させてもらうことができない」という意味で韋提希夫人の懺悔の気持ちのあらわれです。そのあと「願はくは目連と尊者阿難を遣はして、われとあひ見えしめたまへ」は、だから、目連と阿難尊者を代わりに遣はしてください。という意味です。

  • 2 無言の説法について

 前いたところでは、釈尊韋提希夫人への無言の説法をされたという説明をしておりました。お釈迦様が観無量寿経に、釈尊韋提希夫人に会って韋提希夫人が愚痴な発言をしてから五体投地し、懺悔・請問・放光・現国し、「教我思惟、教我正受」とお願いするまで、お釈迦様は黙して語らなかったというものです。しかも、半眼の眼で韋提希夫人の心を見ていたというような説明までありましたが、これらはちょっとおかしいと思います。

 善導大師は、観無量寿経䟽の中で、「黙然として坐して、総じていまだ言説したまはざることを明かす。」と述べておられますが、そのあとに「ただ、中間の夫人の懺悔・請問・放光・現国等は、すなはちこれ阿難、仏に従いて王宮にしてこの因縁を見て、事了りて山に還り、伝へて耆闍の大衆に向かいて上のごとき事を説くに、はじめてこの文あり。またこれ時に仏語なきにあらず、知るべし。」と、これは仏語はあったけれども、要でなかったために阿難がお経に載せなかった仰っているので、これをもって無言の説法というのは少し違うように思えます。

  • 3 最後に韋提希夫人は果たして定善を修行できたのか。

 前いたところでは、韋提希夫人は定善の修行ができず、最後には地獄一定と地団駄踏んだところで阿弥陀仏を拝見しその一念に信心決定したというのです。しかし、このような描写は特に経にないのでありまして少々根拠のない話になります。韋提希夫人はお釈迦様の加持力によって、定善を実行できたと理解すべきじゃないかと思うわけです。般若心経で観音菩薩が空について語ったのも、お釈迦様の加持力を得たためだと言われています。最後のところは今調べている最中でして調べ終わったらあげてみたいと思います。ちなみに、起観生信について、法雷では菩薩は「と」と法を聞いて観を起こす前に信を生じるんだと教えられています。