凡夫らしい姿をみるべき

 先日、範浄文雄氏の大満の修行と二河白道いう節談説法を聞きました。動機はどちらも前にいた会のときに説法で聞いたものだったからです。特に大満の修行については法雷ではほとんど話されないないようで、史実とは違うと理解しておりますが、この話のルーツはどこにあるのかと疑問に思ったこともありましたので、ルーツ探しという理由で求めたものです。

 以前の会の説明では、親鸞聖人は大満の修行は苦も無く成し遂げられたというような話でしたが、この節談説法では、大変弱い親鸞聖人という姿で描かれておりました。

 もともと、大満の修行の発願は親鸞聖人が望んで行ったものではなく、親鸞聖人を妬んだ兄弟子がたが仕向けたものだったという話と、その修行は大変厳しく一日一粒しか米が食べられないなどで、修行をすれば必ず死ぬというものだったという話でありまして、それを実施した親鸞聖人は死ぬ直前まで行かれたというものでした。また、身命を捨てて修行をしても悟りは得られなかったという懺悔の言葉が出てまいりますね。

 詳しい説明はこちらを参考にしてください。親鸞がやり遂げた大曼の難行とは

 このような節談説法が大満の修行の話のルーツのようですね。ただ、前の会での超人的な聖人の姿は前の会の会長さんがアレンジしたものでしょうか。

 浄土真宗を求めるものにとって超人的な先生というのは私たちには毒にこそなれ薬にはなりません。私の先生は特に妙好人の話は毒になるから読まなくてよいとよく話されました。先生が一度妙好人について説法で触れられたときに、その妙好人伝をネットで探して印刷して先生のところに持って行ったことがありましたが、そのときにそう話されました。

 瑞剱先生のお父様の久太郎さまは妙好人で有名だったので、瑞剱先生のところには信者さんが大勢訪ねてこられたそうです。それはそれは見事な立ち振る舞いで、お仏壇にご挨拶して久太郎さんと信心の話をされて帰られるという状況だったようでして、その方が帰られる度に久太郎さんは瑞剱先生に「あのような真似をせんでいいぞ」と言っておられたそうです。

 私たちは、そういう方の形ばかりを見てしまうのですね。それで「ああならないと救われない」と思ってしまう。逆にそういう方の凡夫らしいところを見よとも言われます。こんなことを書いたら失礼かもしれませんが、私の先生はときどき随分凡夫らしいところがございました。あるときは奥さんと喧嘩をされたり、また、説法の後に晩酌されながらお話しをされることがあり、よく拝聴しておりましたが、その時は先生の昔の話をよくされました。その中には戦争後の混乱した時期をどんな感じで生活されたかという話がよくなされていました。それは凡夫らしい話などもございました。ただ一貫して法に対する情熱というものが感ぜられました。凡夫らしい悪口もなかったわけでもありません。今、思えば、そういうところは私のためには薬だったのだなぁと思えます。