一生かかった人の話(2)

 それは瑞剱先生が教化をされていた人の話です。

 その方は広島のお同行でしたから、説法はどこまでも聞いており、布教使の先が話せるほどだったらしいです。瑞剱先生がお好きでよく聞きに来られたようですが、ところがどんなに聞いても喜べないとその方は言っていたそうです。

 その人のために「死の解決」2巻が出来たとまで言われています。
瑞剱先生ははがき説法をよくされまして、その方のためにはがきをずっと書き続けられたようです。

 結局、瑞剱先生ご健在の時にはまだお慈悲を喜べないで、瑞剱先生がご病気で倒れられて、そのお見舞いに来られた時に、その人に瑞剱先生は「おどろかすかいこそなけれ村雀」と書かれて渡されたそうです。

 それが自分の事を書いたものだと分からなかったようで、その方は、
「先生、こんなのを書いて下さった」と言われていたらしいです。意味がよく分からなかったのでしょうか。

 その方が、もう年が90くらいになって、私の先生が説法に行かれたその会場にその方も来られたのですが、玄関先でひょんな事から転んでしまって、そしたら、その拍子に心臓が止まってしまった事件がありました。それで大騒ぎして、その傍にお医者さんがあってやっていたので、急いで連れて行ったら息を吹き返された。そんなことがあったそうです。

 それから、何年か後に、そのお婆さんのところに先生が行ったときに、そのお婆さんは頭の毛を切って、かわいらしい顔になっていたそうです。そして、テーブルを伝え歩きしてぐるぐる回っていたそうです。そしてにっこり笑われて先生に

「先生、喜んで下さい。私の阿弥陀さんがおられました!」

と仰ったそうです。「私の阿弥陀さん」と言われたなぁと。とても印象に残った言葉だったと言われました。

 その方は小さいころ、両親が離婚して父親に育てられたようですが、父親は事業家だったので、その赤子を何かベットではないですが(名前を失念しました)何か赤子を立たせておく用具に入れて育てたらしいです。

 そんなことで、その方は親の愛情をよく知らずに育ったようでした。先生はその方は両親の愛情を知らなかったから、時間がかかったんだとも仰ったことがありました。

 逆をいえば、自分の子供には愛情を注いで育てないといけないということでしょうか。