一生かかった人の話(1)

 それは、一大事に驚いて長く求めた方の話です。

 先生のお知り合いの方だったようで、小さいころに「後生の一大事」に驚いて夜中にお寺さんを訪ねて行って、介抱をお願いしたことがあるようです。お寺さんは、こんな遅い時間に来られても困るというような対応だったようです。

 先生は、瑞剱先生につく前に別の先生についていたようです。その人のお名前は失念しましたが、歎異抄の話を中心に説法される先生だったようです。お話しはしっかりしていたなぁと仰っていました。

 先生は、当時有名だった大沼法竜さんなんかの話も聞いたことはあるようですが、どうも好きになれなかったようで、あの人の話は道徳に毛の生えたような話だったと言っておられました。

 そんな頃、瑞剱先生にお会いしたようで、それから、前求めていたところでご一緒だったそのお婆さんに瑞剱先生を紹介したようです。

 先生の話しぶりからは、そんなに早く進められたように感じられません。ある程度間が空いていたようです。そして瑞剱先生の話を一緒に聞きに行かれたようですが、瑞剱先生は、ちょうどお釈迦様の誕生仏のような恰好をされて、右手で天井を指し左手で床を指しながら、「二種深信」はこうだぞとお知られたといいます。

 それから、そのお婆さんは、ことあるごとに阿弥陀さんのことを語り始めたようで、先生はそれを「純粋感情」と言って何度もご紹介くだされました。

 「心を弘誓の仏地に樹て、情を難思の法海に流す。」『浄土文類聚鈔

 教行信証には、「念を難思の法海に流す」とありますが、文類聚鈔には「情」と仰っているんですね。
これが純粋感情のことだと。浄土門は、「情を以て趣入する」といって、この純粋感情が大切だと何度も教えて下さいました。