快馬の鞭影を見て即ち正路に至る

 最近、このような言葉が政治で取り上げられました。

 これはもともと仏教から来た言葉です。よくできた馬は鞭で打たずとも、影を見ただけでいうことを聞くということでしょうが、果たして、私たちはどうでしょうか。ここでは鞭は無常を指しますね。

 我々は決して快馬とはほど遠く無常に鈍感です。よく先生が次のような話をされました。

 先生の結婚の際の仲人さんの話です。お名前は存じあげませんが、村の議員をしていた人だったようです。そんな人ですから、もともと浄土真宗の家に生まれていたにも関わらず、世間ごとに一生懸命で、神社の行事なんかにも出ていたようで、村の人は彼は雑行も分からないと批判をしていたようです。ところが、瑞剱先生にはご縁のあった方のようで、時々説法を聞きにきていたようです。また、先生の仲人になられたわけですから、そういうご縁も深かったのでしょう。

 先生は、奈良のご縁で出版された『真っ暗がり』(これは、瑞剱先生の臨終の様子を説かれた説法をまとめたものです。)をという本を何げにその方にも送っていたようです。ところが、その本がついたのは、そういう人がまさに死なんとする病という状況のときだったようでした。

 その方が病院で寝ていたときに、その家のお嬢さんが「こんな本がきてたよ」とその本を持ってきたわけです。その方はお嬢さんにその本を読んでもらったようです。一度聞いてみると自分の心が書いてように感じられました。死に向かったら誰もが真っ暗がりになるのですね。その正直な心を瑞剱先生が説法されたものです。ですから、自分の心が書いてあると感じられて、お嬢さんに何度も読んでもらうようにお願いして真剣に聞かれたようです。

 それで、その時「あぁ、このために仏教は聞くのだったなぁ」と言われたというし、また、最後はお慈悲を喜んで亡くなられたという話でした。それで先生が後日その方の家に行ったときに、上記の話を聞いたのだそうです。「良い本を送ってくれた」とお礼をいわれたようです。

 このように私たちは本当に無常に鈍感で仏教が何を教えたものかその本質を理解することがなかなかできません。自分がいつまでも死なないもの、そもそも、死は怖いので考えたくもないのです。

 しかし、快馬とは言わないでも、折に触れ後生のことが心配にならないではいられませんね。そのちらっと感じる鞭影の一大事に驚いて正路につくべきなのです。

 「一大事に驚いて、それから真剣に求めて二十年かかる」と先生は仰ったことがあります。「二十年なら早い方で、一生かかる人もたくさんいる」とも仰った。

 仏教ではよく「死んでこい」と言われますね。ある時、瑞剱先生が説法でそういう話をしたら、「よう死ぬことができんのです。」と答えたお同行がおられたと言います。私たちは死を真面目に考える力もありません。

 先生は「何度か大病でもして死に損なったらいいんだ。」ともよく教えてくれました。そういうことで、無常について考えないといけないと改めて考えさせられるこの頃です。