お釈迦様の遺跡で・・・

玄奘三蔵の本で思い出しましたが、玄奘三蔵やその前にインドに行った法顕さんもお釈迦様の因縁の深い遺跡で大変落涙されたという話が出てきます。法顕伝から、引用しますと、

法顕は、新城の中で香華、油燈を買い、二人の老比丘に頼んで送ってもらい、耆闍崛山に登った。法顕は華香を供養し、燈火を燃やし続けて、慨然として悲嘆した。やがて涙を収めて「仏は昔ここに住み、首楞厳経を説かれた。法顕は生きて仏にお会いできず、ただ遺跡の諸所を見るのみである」と感慨を述べた。そこで石屈の前で、首楞厳経を誦した。
『法顕伝・宋雲行紀』(東洋文庫

釈迦族が住んでいたカピラ城などは法顕さんの時代で大層荒れ果てていて、そこに行く道には虎などが出るような状態で法顕さんは行くべきではないと書いています。時間が過ぎて荒れ果てたということもありますが、カピラ城などが荒れ果てた理由は釈迦族がお釈迦様が生きておられた時代に毘瑠璃王によって滅亡されたこともあります。

毘瑠璃王は、波斯匿王とその妻、末利夫人のお子様です。末利夫人のお子様には勝鬘夫人もいらっしゃって、両親も勝鬘夫人も篤い仏教信者でありました。

毘瑠璃王のその悪逆な行為がなぜ起きたかを理解するには、波斯匿王と末利夫人の結婚の経緯までさかのぼらなければなりません。

釈迦族はコーサラ国の属国の小さい部族でありましたが高貴な種族として自負していました。また、お釈迦様が悟りを開いて仏になられて有名になられて、そのお釈迦様の噂を聞いた波斯匿王は、釈迦族から妃を迎えたいと考えました。そこで、釈迦族に自分の妃を差し出すように要請したのです。釈迦族では、この要請が大層問題になりました。というのは、釈迦族では他の民族をいやしく思っていて同じ民族のものとしか結婚しなかったからです。ところが、大国の王からの申し入れを断ったら、釈迦族は滅ぼされてしまいます。そこで釈迦族の大臣であった人が、自分と下女の間に生まれて綺麗で聡明な娘を嫁がせようと考えたのです。下女の間に生まれた娘ですから、その娘は身分は大層低くシュードラであったといわれています。その娘を自分の正式な娘として波斯匿王に嫁がせたのです。

末利夫人が綺麗で聡明であったことから、この時にこの謀ごとは発覚しませんでしたが、後のちこの問題が禍となっていくのです。毘瑠璃王は幼年時代に母の生地の釈迦族のところで過ごす時期がありました。その時に下民の子であったため釈迦族のものに罵倒されました。その時の王子は釈迦族に恨みを抱くことになったのです。

王子は、やがて王となってから、釈迦族を滅ぼそうと何度も進軍します。2度はお釈迦様の説得で思いとどまりましたが、3度目はお釈迦様も説得をあきらめます。お弟子はお釈迦様に今説得をやめれば釈迦族は滅ぼされますと申し上げますと、お釈迦様は「これは業の問題だから、私にはどうしようもない」と仰ったと言われています。毘瑠璃王については、教行信証にも載っていますね。

この話でも分かりますが、恨みは恐ろしいものです。私もちょっとした口の禍で友情が崩れた経験があり、この話の教訓もあって、それ以後、人の悪口をいわないように心がけています。

チベット仏教の先生は、どんな人でも菩薩が凡夫の姿をして現れたのかもしれないので粗末に扱ってはならないと話しておりました。法華経に、不軽菩薩という人が出てまいりますが、不軽菩薩は全ての人はいずれ仏になる人だといって、どんな人でも軽ろんじなかったといわれます。こういう態度を見習うべきでしょう。

末利夫人にまつわる話はたくさんあるのですね。あの石田光成と豊臣秀吉の出会いの三献の茶は、末利夫人と波斯匿王の出会いの話から来ておりますね。また、末利夫人が下民の身分から王の妃になったかという話では、お釈迦様への布施の功徳という話も有名です。末利夫人を波斯匿王がたいそう愛されたという話もあります。このあたりの話は仏教説話集などを読んでいる方はよくご存じだと思います。

本題に戻りますと、そのように朽ち果てた遺跡で手を合わせた玄奘三蔵も同様に泣いているのですね。何故泣いたのかということについて、玄奘三蔵の本では「たいそう朽ち果てていた」からという説明でした。私はそのようには思えませんでした。

今は文明も進み、清潔な日本にあっては富貴な生活を送っております。そのため、自分が徳でもあるかのように勘違いしてしまいます。2600年も前のインドなど大変文明が遅れた未開の地で、しかも文明も遅れた人たちというように思ってしまいます。実際、今の仏教学はそんなところに立脚して立論しているのです。

NHKのドラマをかいま見て思うのですが、何故昔の人をあんなに汚い顔で描いているのでしょうか。貧乏な人は顔さえ洗えないと思っているのだと思います。ああいう理解の延長として2600年前のお釈迦様をどう理解するのか、少し考えなければならないと思いますね。

先の法顕さんの言葉で伺うことができますが、私たちは不徳なる故にお釈迦様と同時代に同場所に生まれることができなかったのです。そういう懺悔の涙だと思うわけです。私たちは、お釈迦様に遅れて2600年も過ぎてから生まれています。それは何を意味しているのかもう一度考えるべきでしょう。

アショーカ王が高齢のお婆さんでお釈迦様を実際に拝見した人から話を聞いて書きとめた話しが残っています。その人は、まだ子供のころお釈迦様を拝見されたのですが、お釈迦様が歩かれた跡が黄金のように輝いていたのを覚えていると話されたといいます。また、お釈迦様の直弟子だった方がそのお弟子さんと話をしていて、昔は家に入る際でも全く音を立てなかったが、今はあなたのようにマナーが悪くなり、ひどい音をたてるようになったと述懐されたという話があります。

今はグローバルな時代で情報の垣根が低くなり色々なことが広がりやすいので悪にも染まりやすいという問題がありますね。こういう中で生きていくには、自身のハッキリした考え方が必要だと思います。そういうものに仏教の果たす役割は大きいのではないでしょうか。

先生はインドのお釈迦様の遺跡を巡るのが好きでして、何度かインドに行かれました。私は仕事で同行しませんでしたが、多くの法雷の御同行がご一緒されました。上記の耆闍崛山の遺跡である種の感応を得て、そこで四聖諦のお話しをされたと仰っておられました。四聖諦は浄土教では否定されることがありますが、決してそういうものではないんだということをお話しされたようです。