痛みの苦しみ

激しい痛みといえば思い出されるのは、戒賢(シーラバトラ)法師の話です。ここに紹介しておきます。

戒賢法師は、ちょうど玄奘三蔵のお師匠様にあたる方ですが、リウマチを患っていたそうです。
リウマチは今は進行を止める薬があるようですが、当時は治療法はなく大変だったと思います。

今、講談社文庫の「玄奘三蔵」という本から抜粋しますと、

正法蔵(シーラバトラのこと)はもと風病(リウマチ)を患われ、発作のたびに手足が痛んで火で焼かれたり刀で刺されるようでありました。急に発病したかと思うとたちまち治り、そんな状態が二十年も続いたのです。もっともひどかったのが三年前のことで、苦痛はなはだしく、御自身の体を厭われて断食して自殺しようとされました。ところがある夜、夢に三人の天人が現れました。その一人は黄金色、二人目は瑠璃色、三人目は白銀色で、風采うるわしく、その服は軽やかで輝いていました。三人は正法蔵に近づいてくると、
「そなたはみずから身を捨てようとしているのか。経典には身に苦があることを説いているが、身を捨てることは説いていない。そなたは過去にかって国王となり、多くの国民を悩ませたので、いまその報いを受けているのである、いまこそよろしく過去の罪業を反省して、至誠をつくして懺悔すべきときである。苦しいときは安んじて忍び、つとめて経論をひろめ、みずから罪業を消すべきである。いまただ身を厭うて死んでも、苦は永劫に尽きないだろう。」
といった。正法蔵は聞き終わって心をこめて礼拝すると、その金色の人は碧(みどり)色の人をさして、
「そなたは知っているか、この人こそ観自在菩薩である」
といい、また銀色の人をさして、
「この方は慈氏菩薩である」
といわれた。正法蔵は慈氏に礼拝して、
「私はいつも御身もとに生まれ変わることを願っております。この願いは達せられましょうか。」というと、
「そなたが正法を広く伝えたならば、後世にはその願いが達せられよう」
と答えられた。そのとき、金色の人は、
「私は曼誦殊室利(文殊)菩薩である。私はそなたが空しく身を捨てようとしており、それが利益にならないのをみて、いまここに来てそなたに翻心をすすめているのである。そなたはいまこそ私の言葉に従い、正法『瑜伽論』などをあまねくまだ知られていない地方に及ぼしなさい。そうすればそなたの身はしだいに安らかになるであろう。使者を遣わしえぬことを憂うる必要はない。支那国に一人の僧があり、大法を流通せんことを願い、そなたについて学びたいと心から欲している。そなたは待っていて、その者に教えなさい」
といった。正法蔵は聞き終わって礼拝し、
「謹んで御教えに従います」
と申し上げると、三人の姿はもうみえなかった。しかしそれ以来、正法蔵の病苦は忘れたように消えてしまったのです。

このように病は業報であるというのが、仏教の教えです。確かに病にはその原因は別にあるとしても、じゃあ、どうしてその病にあうのかというところで、業報ということで説明されるのです。

以前、チベット仏教の講義を受けていたときも、同様の説明で、チベットで医者にかかると「五体投地」するように勧められるとのことでした。これは功徳を積んで罪障を消すということから来ているとのことでした。実際にそれで治る人が多いということで、日本で現代医学を学んだものからするとなかなか素直に理解できないお話しです。

こういう苦しみが来たときには、罪障を滅するよい機会と捉えて「功徳を積む」心がけが良いのかもしれません。